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2020-05

Bill Evans 「Portrait In Jazz」

j0008■ アルバムデータ
タイトル:Portrait In Jazz
アーティスト:Bill Evans
リリース:1959年12月28日
レーベル:Riverside Records

アルバム総評価:100 
crown01《名音堂 Gold Disc 認定》


■ 曲目リスト
 № 曲          名評      価
01  Come Rain Or Come Shine  ★★★★★  
02  Autumn Leaves [Take 1]★★★★★
03  Autumn Leaves [Take 2] [Mono Version]          ★★★★★
04  Witchcraft★★★★★
05  When I fall in love★★★★★
06  Peri's scope★★★★★
07  What Is This Thing Called Love?★★★★★
08  Spring Is Here★★★★★
09  Someday My Prince Will Come★★★★★
10  Blue in Green [Take 3]★★★★★
11  Blue in Green [Take 2] [Mono Version]★★★★★


■ 講評
William John Evans(1929年8月16日生-1980年9月15日没)は、アメリカのジャズ・ミュージシャンである。

モダン・ジャズを代表するピアニストとして知られ、Claude Debussy、Maurice Ravel などのクラシックに影響を受けた印象主義的な和音、スタンダード楽曲を題材とした創意に富んだアレンジと優美なピアノ・タッチ、いち早く取り入れたインター・プレイといった演奏は、Herbie Hancock、Chick Corea、Keith Jarrett など多くのピアニストたちに多大な影響を与えたほか、ギタリストである John McLaughlin といった他楽器のプレイヤーにも影響を与えている。

Bill Evans の作品はジャズ・ミュージシャンの中で知名度が高く、中でもベースのスコット・ラファロと録音した諸作品(特にアルバム「Waltz for Debby」)は、ジャズを代表する傑作としてジャズファン以外にも幅広い人気を得ている。

今回紹介するアルバム「Portrait in Jazz」は、1959年にリリースされた Bill Evans(piano)、Scott LaFaro(bass)、Paul Motian(drums)からなる Bill Evans Trio のスタジオ・アルバムである。Bill Evans にとっては通算4枚目の作品となる。「Waltz for Debby」と双璧を成す彼の代表作である。「Swing Journal」誌選定ゴールドディスク認定。

Bill Evans の名前を世に知らしめた Miles Davis とのアルバム「Kind of Blue」は、ジャズにモード・ジャズというジャンルを持ち込んだ作品で知られているが、その中心的役割を果たしたのが Bill Evans であった。

彼は、マイルスバンドというビバップのバンドで、モードをするのではなく、新しいモードジャズをするためのコンボを本作「Portrait in Jazz」で作ることになる。

本作では、特にベースとピアノの関係が対等で、従来のようなフォービートのみにベースは徹せず、積極的にピアノとのコールアンドレスポンスをしているという点で、この時代において異彩を放っている。

そのような特徴が第1次 Bill Evans Trio である本作の Trio にあり、Scott LaFaro の事故による突然の死を受けて Trio を解散した後も、Bill Evans Trio または以後のモード・ジャズやコンテンポラリー・ジャズの演奏スタイルの特徴となる。

また本作は、シャンソンのスタンダード「枯葉」に急速調のピアノで多彩なアドリブを展開することで独自の解釈を持ち込み、それはモード・ジャズを代表する名演として殊に有名であり、Keith Jarrett、Chick Corea 等、コンテンポラリー・ジャズを代表するピアニストに大きな影響を与え続けている。

「Blue in Green」は、「Kind of Blue」収録曲のセルフカバーである。「Kind of Blue」では、この曲は Miles Davis が作ったことになっているが、実質的には Bill Evans の貢献が大きい曲であり、本作では Bill Evans と Miles Davis の共作としてクレジットされている。「Peri's scope」は Bill Evans のオリジナル曲。Bill Evans のガールフレンドの Peri が、自分の名前がついた曲がない、とB ill Evans に催促をしてできた。

(出典:「ポートレイト・イン・ジャズ」2014年2月5日 10:47 UTC) 『ウィキペディア日本語版』)

▼ Bill Evans
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「Portrait in Jazz」は、録音レーベル Riverside Records の名前を取って「リバーサイド四部作(スタジオ盤2作(「Portrait In Jazz」、「Explorations」)とライヴ盤2作(「Waltz For Debby」、「Sunday At The V.Vanguard」)から構成)」と称されるアルバムの筆頭に当たり、ジャズの必聴盤と言われている。

不覚にもアルバムを聴いてすぐ、その例えようのない音楽の美しさに魅了されてしまった。いや、「惚れてしまった」と言っていいかもしれない。

Bill Evans のピアノの魅力は何と言ってもやさしさと力強さと小気味よさにある。一見相反するこれらの要素を見事に調和させ、緩急織り交ぜた踊るようなピアノのキータッチ。ある批評に Bill Evans は10本の指からオーケストラを奏でるとあったが、まさに言い得て妙である。

Scott LaFaro のベースと Paul Motian のドラムも決して負けてはいない。でしゃばり過ぎることのない、それでいて圧倒的な演奏。心揺さぶる見事なインタープレイセッション。まさに Trio の力量が均衡してこその掛け合いである。

そのメロディーの美しさから、Bill Evans のピアノは Jazz ファンのみならずあらゆるジャンルの音楽好きを魅了する力を持っている。Jazz を初めて聴くなら、ぜひ Bill Evans の傑作「Portrait in Jazz」をお薦めする。

よくよく考えると「Portrait in Jazz」は、驚くことに今から50年以上も前の演奏なのである。

日本ではまだ東京オリンピックも開催されていない昭和34年にアメリカではこんな演奏が行われていたのだ。そう考えると言葉が出ない。ただただ驚くばかりである。

▼ Bill Evans
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■ 経歴
▼生誕から1950年代まで
Bill Evans はアメリカニュージャージー州のプレインフィールドに生まれ、母はルシン人の系統を持ち、父は相当な身分を持つウェールズ系の人物であった。彼の父は、兄の Harry Evans と同様に、幼い頃から Bill Evans に音楽を学ばせている。1950年代のニューヨークでの活動では、伝統的なジャズ・前衛的なジャズのいずれにおいても優秀なピアニストとして知られるようになった。

この時代には、サイドマンとしての活動が主であり、リディアン・クロマティック・コンセプトで知られる音楽理論家・作曲家の George Russell の録音に参加している。George Russell からの影響は、作曲に現れていると言われる。1956年には、最初のリーダーアルバム「New Jazz Conceptions」を残している。だが、このデビューアルバムは500枚しか売れなかった。

1958年には Miles Davis のバンドに短期間加わり、録音とツアーを行っているが、バンドで唯一の白人であること、ドラッグの問題、そして彼自身がリーダーとしての活動を望んだためにバンドを離れる。しかしデイヴィスの要望で、ジャズ史に大きな影響を与えた1959年の「Kind of Blue」のセッションに参加している。ハード・バップ的な頻繁なコードチェンジではなく、モードに根ざしたアドリブをこのアルバムで目指していた Miles Davis は、Bill Evans のアイディアを必要としていた。このアルバムに、エヴァンスは自作「Blue in Green」を提供している(ただし、クレジットは Miles Davis 作曲となっている。「Portrait in Jazz」での同曲のクレジットは Bill Evans と Miles Davis の共作とされている)。また「Flamenco Sketches」が「Everybody Digs Bill Evans」収録の「Peace Piece」と発展させたものと伺えるなど、「Kind of Blue」には Bill Evans の色彩が濃い。

(出典:「ポートレイト・イン・ジャズ」(2014年2月5日 10:47 UTC) 『ウィキペディア日本語版』。以下同じ。)

▼ Bill Evans
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▼1960年代
1959年に、エヴァンスはドラマーのポール・モチアンとベーシストのスコット・ラファロをメンバーに迎え、歴史に残るピアノトリオ(ファーストトリオ)を結成する。このトリオは、スタンダードナンバーの独創的な解釈もさることながら、即興性に富んだメンバー間のインター・プレイが高く評価され、ピアノトリオの新しい方向性を世に示した。

従来までピアノやベース・ドラムス、あるいはギターなどの楽器奏者は、ホーン奏者を支えるための「リズム・セクション(伴奏者)」としてリズムを刻む「道具」として扱われ、また、他の「ピアノ・トリオ」においても、主役はあくまでピアノでありベースやドラムスはリズムセクションの範疇をこえるものではなかった。

ビル・エヴァンス・トリオにおいては、この旧来の慣習を打ち破り、テーマのコード進行をピアノ・ベース・ドラムスの3者が各自の独創的なインプロビゼーションを展開して干渉し合い、独特な演奏空間を演出した。特筆すべきはベースのスコット・ラファロで、積極的にハイノート(高音域)で対位旋律を弾き、旧来のリズムセクションの枠にとどまらない新しいベースの演奏スタイルを形成した。

また、ドラムスのポール・モチアンも単にリズムを刻むにとどまらずエヴァンスのインプロビゼーションに挑みかかるようなブラシ・ワークやシンバル・ワークを見せるなど、このトリオで収録した「ポートレイト・イン・ジャズ」・「エクスプロレイションズ」・「ワルツ・フォー・デビイ」および同日収録の「サンディ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード」の4作は、「リバーサイド四部作」と呼ばれる。

しかし、「ワルツ・フォー・デビイ」および「サンディ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード」の収録からわずか11日後、ラファロは1961年7月6日に25歳の若さで交通事故死してしまった。エヴァンスはショックの余りしばらくの間ピアノに触れることすら出来ず、レギュラートリオ活動を停止することとなり、半年もの間シーンから遠ざかった。

このレギュラートリオ活動停止中の演奏活動としては、他セッションへの参加のほか、ピアノソロを録音するものの、エヴァンスの生前は総じてお蔵入りとなっている。(没後、プロデューサーのオリン・キープニューズによって、ソロ演奏が「The Solo Sessions vol.1」「vol.2」として発表された。またエヴァンスのリヴァーサイドにおけるリーダー作を網羅した「The Complete Riverside recordings」が発売された。) 翌年にはベースにチャック・イスラエル(英語発音:イズリールズ Chuck Israels)を迎えて活動を再開するが、スコット・ラファロと共演していた頃のような緊密なインタープレイは、その後退を余儀なくされた。

しかしチャック・イスラエルはもともとラファロの影響を非常に大きく受けたベーシストであり、ヴォイシングこそ地味ながらも、エヴァンスの気まぐれのようなソロ渡しや空間創出に対し、メロディアスなソロで応えており、インタープレイがしっかりと行われている。この時期の収録作として「ムーンビームス」「ハウ・マイ・ハート・シングス」(1962年)などが挙げられる。

1966年にエヴァンスは、当時21歳のエディ・ゴメス(Eddie Gomez)を新しいベーシストとしてメンバーに迎える。若いが優れたテクニックを持ち、飛び込むかのように音の隙に入ってくる積極性を持つエディ・ゴメスは、ラファロの優れた後継者となる。以降、ゴメスは78年に脱退するまでレギュラーベーシストとして活躍し、そのスタイルを発展させつづける。

▼Bill Evans
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▼1970年代
1969年にマーティー・モレル(Marty Morell)がドラマーとしてトリオに加わり、家族のために1975年に抜けるまで活動した。ゴメス、モレルによるトリオは歴代最長であり、従って現在に至るも陸続と発掘・発売されるエヴァンスの音源は、このゴメス・モレル時代の音源が圧倒的に多い。

このメンバー(セカンドトリオ)での演奏の質は、初期の録音でずっと後に発売されたライブ版「枯葉」(Jazzhouse)にも良く現れており、「"ワルツ・フォー・デビィ"ライヴ!」(You're Gonna Hear From Me)、「モントルーII」、「Live in Paris, 1972」、「The Tokyo Concert」、「シンス・ウイ・メット」(Since We Met)と、このメンバー最後のアルバムである1974年にカナダで録音した「ブルー・イン・グリーン」などがある。この時期、特に1973年^74年頃のエヴァンス・トリオは良し悪しは別として、ゴメスの比重が強い傾向にある。

1973年の来日直後、エヴァンスは長年内縁関係にあったエレイン(一般にはエヴァンス夫人と見なされていたが、正式には未婚だった)に別れ話を持ちかける。親しくしていたネネット・ザザーラと結婚するためで、全くエヴァンスの一方的な意志によるものであった。ほどなくエレインは地下鉄へ投身自殺した。ゴメスとのデュオアルバム「Intuition」収録のピアノソロによる「Hi Lili,HiLo」は、不幸な形で亡くしてしまったエレインに捧げられた名演である。

1976年にドラムはモレルからエリオット・ジグモンド(Eliot Zigmund)に交代する。このメンバーでの録音として「クロスカレンツ」(Crosscurrents)、「アイ・ウィル・セイ・グッドバイ」(I Will Say Goodbye)、「ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング」(You Must Believe in Spring)が挙げられる。

麻薬常習者であり、長年の不摂生に加え肝炎などいくつかの病気を患っていたエヴァンスの音楽は、次第にその破壊的内面・一見派手ではあるが孤独な側面、を見せるようになる。 エヴァンスの死後に追悼盤として発売された「You Must Believe in Spring」収録の「Suicide is Painless(痛みのない自殺)」は、映画「M*A*S*H」(1970年)及びTVシリーズ版「M*A*S*H」のテーマとして知られる曲である。

1978年にゴメスとジグムンドがエヴァンスの元を去る。後任に何人かのミュージシャンを試し、中にはマイルス時代の仲間(ヤク中仲間でもあった)だったフィリー・ジョー・ジョーンズもいた。最終的にはベースのマーク・ジョンソン(Marc Johnson)、ドラムのジョー・ラバーバラ(ラバーベラ Joe LaBarbera)にメンバーが落ち着き、これがエヴァンス最後のトリオ(ラストトリオ)メンバーとなった。このメンバーで、エヴァンスは管楽器を加えたクィンテットによる1979年「We will meet again」、またトリオで1980年6月ヴィレッジ・ヴァンガードにおけるライヴ「ターン・アウト・ザ・スターズ」(Turn Out The Stars)を録音しているが、内省的でありつつもよりドライヴした明るい演奏をするようになった。ダイナミックレンジが拡大し、スケールが大きくなっているのである。

しかし一方、時に粗さの目立つことがあり、急速調の演奏とスローな演奏との落差が激しくなっている。これは、常用している麻薬がヘロインから、コカインに移ったこととの関係が指摘される。また、兄のハリー・エヴァンスの自殺や家族との別居など、晩年の私生活問題も要因として挙げられる。

このラストトリオの極めて初期、1979年1月にアイオワ州立大学にて収録されたライブ映像「Jazz At The MaintenanceShop」における演奏と、非公式録音ではあったが現在公式な形でCD化(総計16枚)されているラストレコーディング、キーストン・コーナーにおけるライブ演奏を比べると、トリオ全体が大きく進化していることが良くわかる。エヴァンスの死の直前まで、彼らは、前進し続けたのである。エヴァンス本人がインタビューで語っているように、このラストトリオとの演奏がとにかく楽しかったのであろう。

▼ Bill Evans
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▼ 薬物乱用と死
エヴァンスの薬物乱用は1950年代後半のマイルス・デイヴィスとの仕事の頃には既に問題となっていた。ヘロインのために体も蝕まれ、金銭的にも余裕はなかった。1963年、ヴィレッジ・ヴァンガードでの演奏の時、右手の神経にヘロインの注射を刺したことから右手がまったく使えず、左手一本で演奏をこなすという事件があった。これを機にヘロインをやめることになったとされるものの、一時的な断薬には成功しても、晩年まで薬物との縁は切れなかった。

1970年代後半のエヴァンスは長年の麻薬常用の影響で、既に健康を大きく損なっていた。キーストン・コーナーライブ時点でも、演奏時以外での疲労困憊した様子や、通常ではピアノ演奏が不可能と思われるほどに指が腫れ上がる症状が見られた(残された映像や写真によって、60年代にすでにこの手の異常を確認できる)。エヴァンスの体調を危惧したマーク・ジョンソンやジョー・ラバーバラは、活動を一時休止してでも治療に専念することを懇請したが、彼はそれを拒んでピアノに向かうことを続けた。

1979年の「We Will Meet Again」は、ピアニストかつピアノ教師であった兄ハリーのための作品でもある。この年の録音の4ヶ月前にハリーは動機不詳の拳銃自殺を遂げている。

エヴァンスは、前述のキーストン・コーナーでのライヴに続き、1980年9月9日にニューヨーク市のライブハウス「ファッツ・チューズデイ」において同バンド出演初日演奏を行った。既に激しい体調不良に見舞われていたものの、ジョンソンやラバーバラによる演奏中止要請を振り切って演奏を続行した。

しかし、同バンドの開催2日目にあたる9月11日、ついに演奏を続行できない状態となり、やむなく演奏を中止し自宅で親しい人達によって3日間にわたり看護された。9月14日に再度ラバーバラの説得により、市内のマウント・サイナイ病院に搬送されたが、翌9月15日の月曜日に死去した。51歳没。

死因は肝硬変ならびに出血性潰瘍による失血性ショック死であった。永年の飲酒・薬物使用で、人体の薬物・異物分解処理を司る肝臓に過剰な負担をかけ続けた結末で、疫学的には周知されている結果であった。肝臓疾患はエヴァンス自身も自覚していた長年の持病と言うべきものであったが、ことに晩年の数年は必要な療養をとろうともせず、死の間際に至るまで頑なに治療を拒み続けた事実がある。結果病状を悪化させ、死を早めた。

自らが自殺の原因を作ったエレインと、兄弟・音楽の両面で絆の深かった兄ハリーの二人の自殺が、晩年のエヴァンスの破滅志向に影響を与えていたとする批評も見られるが、真相は定かでない。ジャズ評論家で生前のエヴァンスと親しく、「ワルツ・フォー・デビー」「ターン・アウト・ザ・スターズ」の作詞者でもあったジーン・リースは、エヴァンスの最期について「彼の死は時間をかけた自殺というべきものであった」と述懐している。

▼ Bill Evans
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*この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「ポートレイト・イン・ジャズ」を素材として二次利用しています。


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Author:香山蔵之介
名古屋音楽堂本舗の店主香山蔵之介による音楽講評です。
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