FC2ブログ

2020-07

Dionne Warwick 「Dionne」

Dionne Warwick 「Dionne」■ アルバムデータ
タイトル:Dionne
アーティスト:Dionne Warwick
リリース:1979年5月
レーベル:Arista Records

アルバム総評価:98
crown01《名音堂 Gold Disc 認定》


■ 曲目リスト
  №  曲          名評      価  MV  
01  Who, What, When, Where, Why(あなたがわからない)      ★★★★★  youtube02
02  After You★★★★★youtube02
03  The Letter(あの娘のレター)★★★★☆youtube02
04  I'll Never Love This Way Again(涙の別れ道)★★★★★youtube02
05  Deja Vu(恋にめぐり逢い)★★★★★youtube02
06  Feeling Old Feelings(思い出に生きる)★★★★★youtube02
07  In Your Eyes(いつわりの瞳)★★★★★youtube02
08  My Everlasting Love★★★★★youtube02
09  Out of My Hands★★★★★youtube02
10  All the Time★★★★★youtube02

※( )は日本語タイトル

■ 講評
今回紹介するアルバム「Dionne」は、アメリカの女性ヴォーカリスト Dionne Warwick が1979年に Arista Records からリリースした20thスタジオアルバムである。Warner Bros. Records から Arista Records へ移籍後第一弾アルバムとなる。

レコーディングは、1978年から1979年にかけての冬シーズンに行われ、1979年5月にリリース。1千万枚以上を売り上げてアメリカレコード協会(RIAA)から初めてプラチナディスクの認定を受けた Dionne Warwick のキャリアの中で最も売れたアルバムとなっており、盟友であった 作曲家 Burt Bacharach と 作詞家 Hal David とのコンビを解消した後、Warner Bros. Records 在籍の不遇時代を経て、見事復活を遂げた記念すべきアルバムでもある。

アルバムプロデュースは、Arista Records 創設者である Clive Davis の仲介で同じレーベル仲間である Barry Manilow が担当。レコーディングはハリウッドの United Western Studios で行われた。Barry Manilow は、同時期の1978年に「Even Now」、1979年に「One Voice」 と立て続けに自身のヒットアルバムをリリースしており、まさに人気絶頂期におけるプロデュース作品であった。

バックヴォーカルには Dionne Warwick(#1,#3,#9)自身が参加した他、プロデューサーの Barry Manilow(#2-#5,#6,#8,#10)、Barry Manilow の初期のアルバムの共同プロデューサーとしても知られるシンガーソングライターの Ron Dante(#2-#5,#6,#8,#10)、ギターには Barry Manilow や Lee Ritenour とのセッションで知られる Mitch Holder、ベースには 渡辺貞夫 のバックミュージシャンとしても活動経験のある Will Lee、ドラムスにはセッションドラマーとして知られる Rick Schlosser、パーカッションには Alan Estes、キーボードにはジャズピアニストとして知られる Bill Mays、コンサートマスターには Sid Sharp、オーケストラ演奏には60以上のゴールド、プラチナアルバムの制作に参加した Artie Butler(#3,#4)、Gene Page(#2,#5,#9,#10)、Greg Mathieson(#1,#6)、エミー賞やグラミー賞受賞経験のある Jimmie Haskell(#7,#8)らが参加しており、プロデューサーである Barry Manilow 色の強いサポート体制となっている。なお Barry Manilow はピアノ演奏でも参加するなど、プロデュース以外でもその手腕を発揮している。

一方、アルバムのアートディレクションは、Eric Carmen のアルバム「Change Of Heart」や Barry Manilow のアルバム「One Voice」のアートディレクションでも知られる Donn Davenport、ジャケットのフォトグラフは、Diana Ross や Donna Summer のアルバム、日本のアイドル Pink Lady の海外リリース盤のジャケット写真などを担当したことでも知られるフォトグラファー Harry Langdon、インナージャケットのフォトグラフは、Barry Manilow や Ella Fitzgerald の作品を数多く手掛けたことでも知られる Jay Thompson が担当している。

ちなみにリリース当時の日本盤 LP の帯のコピーは、「華麗で小粋なディオンヌの世界。ヒット曲「涙の分かれ道」等、プロデューサー、バリー・マニロウとの息もピッタリ!」となっていた。

▼「Dionne」
画像


▼「Dionne」ジャケット裏面
画像


▼「Dionne」インナーシート
画像


▼「Dionne」LP盤ラベル
画像


画像



本作からは1979年にリードシングル「I'll Never Love This Way Again」、「Deja Vu」、1980年に「After You」の3曲がシングルカット。

このうち第一弾シングル「I'll Never Love This Way Again」(邦題:「涙の別れ道」)は、1979年7月15日リリース。B面は「In Your Eyes」。イギリス人の Richard Kerr が作曲、アメリカ人の Will Jennings が作詞したアルバムリードトラックで、アルバムと同じく Barry Manilow がプロデュースを担当。

Arista Records 移籍第一弾シングルにして U.S.Billboard Hot 100 第5位、R&B/Hip-Hop Songs Chart 第18位、Adult Contemporary Chart 第5位を記録。カナダのシングルチャートでも第6位を記録するなどワールドワイドにヒットし、1980年のグラミー賞で「Best Female Pop Vocal Performance(女性ベスト・ポップ・ヴォーカル賞)」を受賞。1千万枚以上を売り上げてアメリカレコード協会(RIAA)からゴールドディスクに認定されるとともに、アルバムの売上げにも貢献し、アルバムも1千万枚以上を売り上げてプラチナディスクに認定された。

この楽曲は、Richard Kerr が1978年に自身のアルバム「Welcome To The Club」用に「I Know I'll Never Love This Way Again」というタイトルでレコーディングしたものがオリジナル曲となっている。その後直ぐに女優でシンガーである Cheryl Ladd が同年リリースした自身のデビューアルバムで同タイトル「I Know I'll Never Love This Way Again」でカヴァー。「I'll Never Love This Way Again」のタイトルでは Tom Jones、Billie Jo Spears、The Nolans などがカヴァーしており、世界中の様々な言語でカヴァーされる人気の楽曲となっている。

▼「I'll Never Love This Way Again」UK/Germany盤
画像


▼「I'll Never Love This Way Again」Netherlands盤
画像


▼「I'll Never Love This Way Again」Benelux盤
画像


▼「I'll Never Love This Way Again」日本盤
画像



続く第二弾シングル「Deja Vu」(邦題:「恋にめぐり逢い」)は、1979年11月リリース。B面は「All The Time」。Isaac Hayes が作曲、Adrienne Anderson が作詞したバラッドで、こちらもアルバムと同じく Barry Manilow がプロデュースを担当。

1970年代において5枚目にして最後の TOP40 入りシングルであり、The Spinners をフィーチャーした1974年のシングル「Then Came You」が U.S.Billboard Hot 100 第1位を獲得して以降5年間では「I'll Never Love This Way Again」に続いて二度目となる TOP40 入りシングルとなった。

この楽曲は、U.S.Billboard Hot 100 第15位、R&B/Hip-Hop Songs Chart 第25位、Adult Contemporary Chart 第1位を記録。1980年のグラミー賞で「Best Female R&B Vocal Performance(女性ベスト・R&B・ヴォーカル賞)」を受賞。グラミー賞初となる前作「I'll Never Love This Way Again」の「Best Female Pop Vocal Performance(女性ベスト・ポップ・ヴォーカル賞)」との同時受賞という快挙を成し遂げた。

▼「Deja Vu」UK盤
画像


▼「Deja Vu」Germany盤
画像


▼「Deja Vu」日本盤
画像



その一方で Doug Frank と Doug James が制作し、1980年リリースされた第三弾シングル「After You」は、U.S.Billboard Hot 100 第65位、R&B/Hip-Hop Songs Chart 第33位、Adult Contemporary Chart 第10位と、全2作に比べてマイナーヒットに留まった。B面は「Out Of My Hands」。

▼ Dionne Warwick
画像



Dionne Warwick というとどうしても 研ナオコ を思い出してしまって楽曲を聴くときに厄介なのだが、そうした個性的な容姿はさておき、ストレートでアッパーな歌声の女性ヴォーカリストが多いブラックコンテンポラリーミュージック界にあって、なかなか異色な非常に優しく暖かな歌声の持ち主である。そうした個性的な歌声のせいもあってか根強い人気を誇って数々のヒット曲を世に送り出しており、アメリカではポップミュージック界の大御所シンガーといった立ち居地となっている。

特にバラッドに関しては、スタンダードナンバーとなっている名曲も少なくなく、初期の代表作「Alfie」などは盛んにカヴァーされており、オリジナル曲(厳密には最も売れた)のヴォーカリストが Dionne Warwick と聞いて驚かれる方も多いかもしれない。

そのキャリアは、主に作曲家 Burt Bacharach と作詞家 Hal David のソングラーターコンビの作品のシンガーとして活躍した1960年代半ばから1970年代初期にかけての活動前期と、二人の元を離れてから不遇であった1970年代の Warner Bros. Records 時代の活動中期、そして再びスターダムに返り咲いた1980年代の Arista Records 時代の活動後期と大きく3つに分けることができるだろう。中でも個人的にはちょうどリアルタイムで彼女のアルバムを聴くことができた Arista Records 時代の作品が最も気に入っているところだ。

今回紹介した「Dionne」は、まさにその Arista Records 時代の幕開けを告げるアルバムで、当時人気が低迷していた Dionne Warwick の起死回生の一枚となったことでも知られている。その立役者が当時人気絶頂期にあったシンガーソングライターにしてアルバムプロデューサーを務めた Barry Manilow である。

アルバム収録曲を聴いても、特にバラッドについては、Barry Manilow 本人が歌っても全くおかしくないほど Barry Manilow な楽曲となっており、バックミュージシャンにも Barry Manilow に近いミュージシャンを多様するなど、まさに Barry Manilow 色が強く出たジェントルなアルバムとなっている。

当時 Barry Manilow は「Even Now」、「One Voice」とヒットアルバムを連発して人気絶頂期にあり、オーケストラを取り入れた迫力あるアレンジも含めてそうした揺るぎない自信が表れたプロデュース作品と言えるのではないだろうか。

収録曲はいずれもサビの部分で感動的な盛り上がりを見せる、いわゆる「いかにも聴かせるようなバラッド」が主体となっているが、その曲調は Dionne Warwick の優しく柔らかな、それでいて一時代を築いた人気シンガーとしての自信と貫禄が伝わってくるような地力のあるヴォーカルと実によくマッチして、決して仰々しくなくリラックスして聴くことができる上品なアルバムに仕上がっており、そうした優等生的な品の良さにアルバムがヒットした要因があるようにも感じた。

特に「After You」や「All the Time」などは非常に豊かなメロディが素敵な感動的な楽曲で、Dionne Warwick の作品の中でもお気に入りのバラッドとなっている。ただ「After You」に関しては、シングルカットされているものの今一つヒットには至らなかったということであり残念なところではあるが、この2曲を含めてアルバムのトータルバランスは極めて素晴らしく、このアルバムが彼女のキャリアの中で最も売れたアルバムという事実も納得の一枚となっている。

活動後期以降は目立った活躍も聞かれなくなり、近年では必ず今は亡き Whitney Houston の従姉妹 という枕詞が付いてしまうほど過去の人となってしまった感の強い Dionne Warwick ではあるが、この「Dionne」で往年のビッグスターの息吹きを感じていただければ幸いである。

なお、以下のバイオグラフィーにあるように、契約上のトラブルに関する裁判や離婚訴訟の経緯等を見ても、Dionne Warwick は非常に自信家でなかなか気の強い女性のようだ。歌から受ける印象とはまた違ってなかなか興味深いところでもある。

▼ Dionne Warwick
画像




Dionne Warwick(ディオンヌ・ワーウィック、本名 Marie Dionne Warrick、1940年12月12日生)は、アメリカの黒人女性シンガー、女優、TV番組司会者である。国際連合食糧農業機関と世界保健機関のアメリカ親善大使も務めている。

作曲家 Burt Bacharach と作詞家 Hal David のソングラーターコンビの作品の歌い手として、また2012年2月11日に亡くなった Whitney Houston の従姉妹としても知られている。ロック全盛の時代にあってポップで40もの大ヒット曲を世に送り出し、アメリカのシングルチャートである U.S.Billboard Hot 100 を席捲した。また1962年から1968年の間に U.S.Billboard Hot 100 に69曲をランクインさせ、Aretha Franklin に次ぎ最もチャートインした女性ヴォーカリストとしても知られている。

2003年に発表された「Q誌(イギリスの月刊音楽雑誌「Q」)の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」においては、第79位にランクイン。

1972年の初来日以降日本での公演も多く、日本の洋楽ファン中でも人気の高いヴォーカリストの一人である。近年では2012年2月11日に亡くなった Whitney Houston の従姉妹としても知られている。

▼ Dionne Warwick
画像



Dionne Warwick は、1940年12月12日ニュージャージー州イーストオレンジで鉄道従業員、料理人、公認会計士であった父 Mancel Warrick とアメリカのゴスペルグループ The Drinkard Singers のマネージャーであった母 Lee Drinkard の娘として生まれる。姉妹には、共に R&B シンガーの“Dee Dee”こと Delia Warwick(2008年10月死去)と Judy Clay(義理の姉妹。2001年7月死去)がおり、二人とも Dionne Warwick よりディープなソウル・シンガーであった。また弟に Mancel Jr.がいたが、1968年21歳の若さで事故死している。両親は共にアフリカ系アメリカ人で、彼女もネイティヴアメリカン、ブラジル人、オランダ人の血を受け継いでいる。

1959年、East Orange High School を卒業後、コネチカット州ハートフォードにあるハート音楽大学(Hartt College of Music)において主専攻で音楽教育、副専攻でピアノを専攻する。ニューヨークのレコーディングスタジオでバックコーラスやデモ歌手をしている時に作曲家の Burt Bacharach と作詞家の Hal David と出会い、大学卒業後に歌手として本格的に活動を始め、1963年にデビュー。

◆ Drinkard Singers 時代

家族の多くが RCA Records 所属でニューヨークを拠点に活動していたファミリーゴスペルグループ The Drinkard Singers のメンバーであった。このグループは元々 Whitney Houston の母である Cissy Houston、Anne Drinkard-Moss、Nick Drinkard による The Drinkard Jubilairs というグループ名で知られており、後に Dionne Warwick の祖父母とその子供である William、Dionne Warwick の母である Lee 、そして Hansom が加入。

グループマネージャーを母親の Lee が務め、Dionne Warwick もグループの音楽指導として参加。The Drinkard Singers は順調に音楽活動を成功させ、Lee Warrick と Dionne Warwick も公演に参加するようになり、Lee Warrick はポップ/ R&B シンガーである Judy Clay を非公式に参加させるなどマネージャーとしての手腕を発揮する。その結果、Elvis Presley がグループに関心を示し、The Drinkard Singers は、彼のツアーに帯同。この頃、Dionne Warwick は、ニュージャージー州ニューアークの教会で聖歌隊の一員として歌い始めるようになる。

◆ The Gospelaires 時代

その後、Judy Clay、Cissy Houston、Doris "Rikii" Troy とともに The Gospelaires に参加。The Gospelaires は Dionne Warwick が1963年にリリースした「Just One Look」にもバックヴォーカルとしても参加。 その後 Dionne Warwick と Doris "Rikii" Troy がソロ活動で成功を収めたためグループを脱退するなどメンバーチェンジを経て、The Sweet Inspirations とグループ名を変更。何曲かヒット曲をリリースするが、グループの意思に関わらずレコーディング・バックグラウンドシンガーとしての活動がほとんどであった。 The Gospelaires(The Sweet Inspirations)は、Garnet Mimms、The Drifters、Jerry Butler、Solomon Burke、更にはソロに転身した Dionne Warwick や Aretha Franklin、Elvis Presley といった大御所の作品にも参加。そうした評判が評判を呼び、The Drifters、Ben E. King、Chuck Jackson、Dinah Washington、Ronnie "the Hawk" Hawkins、Solomon Burke など多くのビッグアーティストのバックグランドセッションで実力を発揮することになる。

◆ ソロデビュー

その後 The Drifters のシングル「Mexican Divorce」のレコーディングでバックヴォーカルを務めた際に、作曲家である Burt Bacharach に その歌声とスターとしての資質を見出される。

こうして1962年、Burt Bacharach と作詞家 Hal David が主宰するプロダクション会社と契約するとともに、同じく Dionne Warwick の才能に惚れ込んだ Florence Greenberg が社長を務める Scepter Records とも契約。Burt Bacharach は Dionne Warwick との信頼関係のおかげで Scepter Records サイドの支配下に置かれることなく自由に Dionne Warwick と音楽制作を行うことができた。Dionne Warwick の音楽の才能と教養のおかげで、Burt Bacharach はより挑戦的な楽曲を作曲に挑戦。こうして1963年初めに Scepter Records からデビューアルバム「Presenting Dionne Warwick」をリリースする。

▼「Presenting Dionne Warwick」1stアルバム
画像



◆ 初期の成功期

1962年11月、Scepter Records から1stソロシングル「Don't Make Me Over」をリリース。なおこのシングルのタイトルは、Dionne Warwick がプロデューサーである Burt Bacharach と Hal David のコンビに怒ったときに発した言葉(「いちいちうるさいわよ」とか「指図しないでよ」といった意味であろうか)を付けたもので、元々 Burt Bacharach と Hal David が制作して Dionne Warwick がデモ録音をしてすっかり1stシングルにするつもりでいた「Make It Easy on Yourself」を、Scepter Records の意向でソウルシンガーである Jerry Butler に提供してしまったことが発覚して非常に憤慨したことがこうしたフレーズの原因となっていると言われている。本シングルは、Burt Bacharach と Hal David のコンビにとって初となる U.S.Billboard Hot 100 TOP40(第21位)作品となり、Hot R&B/Hip-Hop Songs Chart でも第5位とヒットを記録。なお、このシングルのラベルに彼女の名前「Warrick」が「Warwick」とミスプリントされたため、それ以来、公私共に「Warwick」を使用するようになったとのことである。

その後立て続けに「This Empty Place」(B面の「Wishin' and Hopin」は後に Dusty Springfield がカヴァー)と「Make The Music Play」の2枚のシングルをリリースし、いずれも U.S.Billboard Hot 100 にチャートイン(第84位と第81位)を果たす。1963年12月にリリースした Scepter Recrds 第4弾シングル「Anyone Who Had a Heart」は、自身初となるU.S.Billboard Hot 100 第8位と TOP10 入りを記録するとともに世界的にもミリオンセラーとなった。続く1964年4月にリリースした「Walk On By」も U.S.Billboard Hot 100 第6位を記録するとともに世界的にもミリオンセラーを記録。このヒットで彼女のシンガーとしての地位が確立されることとなった。こうして Dionne Warwick は、1960年代後半にはアメリカとカナダのヒットチャートの常連となり、1962年から1971年にリリースした作品のほとんどが Burt Bacharach と Hal David のコンビによる作品となった。

こうした活躍の中で、Dionne Warwick は、アメリカのアーティストの中でも比較的「British Invasion」(The Beatles や The Rolling Stones に代表される1960年代にアメリカで沸き起こったイギリスのロック・バンドブーム)の波(悪影響)を受けた一人と言われている。イギリスでも Dionne Warwick のヒット曲「Walk On By」や「Do You Know the Way to San Jose」はよく知られていたが、特に Burt Bacharach と Hal David のコンビ作品が Cilla Black、Sandie Shaw、Dusty Springfield といったイギリスのシンガーにカヴァーされ、中でも Cilla Black による「Anyone Who Had a Heart」は、UK Singles Charts 第1位を獲得するヒットを記録。この事実は Dionne Warwick にとっても衝撃的であり、レコード会社の経営陣がイギリスで彼女の楽曲を他のアーティストにカヴァーさせようとしているという話を聞いたときは非常に屈辱的だと憤慨。Dionne Warwick はなんとイギリスツアー中に直接 Cilla Black に会って、嫌味を込めて「私が次にアメリカでリリースするシングルはあなたのヒット曲「You're My World」かもね。」と言ってやったと後に明らかにしており、その際、次のレコードで自分がくしゃみをしたら、Cilla Black も同じようにくしゃみをするんじゃないかと本気で信じていたとも語っている。自分の楽曲を売ろうとするのではなく儲けるために安易に当時流行のイギリスのアーティストにカヴァーさせようとするレーベルサイドの方針をよほど腹に据えかねていたのであろうか、後に Dionne Warwick は実際に Cilla Black のヒット曲「You're My World」と「Alfie」の2曲をカヴァーしている。

1964年、年間6曲のチャートヒット曲をリリース。音楽雑誌 Cash Box Magazine の読者投票の結果、「The Bestselling Female Vocalist」(最も売れている女性ヴォーカリスト)に名前が挙げられ、1969年、1970年、1971年にはその第1位に輝く。また1967年の投票では、イギリスのシンガー Petula Clark に次いで第2位、1968年の投票では Aretha Franklin に次いで第2位に輝く。また Playboy 誌の1970年の影響力のある音楽の読者投票でも女性ヴォーカリストの第1位に輝いた。

1965年、映画製作会社 Eon Productions は、映画「007」シリーズの James Bond のテーマ曲に Dionne Warwick の「Mr. Kiss Kiss Bang Bang」を使用する予定であったが、映画プロデューサーである Albert Broccoli がテーマ曲には映画タイトルである「Thunderball」を含めるよう主張。このため、急遽11時間で「Thunderball」というタイトルで新たな楽曲が制作・レコーディングされ、ポピュラー音楽の歌手 Tom Jones が歌うことになるというハプニングがあった。なお「Mr. Kiss Kiss Bang Bang」のメロディだけは、映画音楽の主要メロディーとして使用されることとなった。

◆1960年代半ばから1970年代初期にかけて

私生活では1966年に俳優でドラマーである William David Elliott と結婚し なんと翌年の1967年5月には離婚。更に直ぐに仲直りして1967年8月には再婚。1969年には長男 David Elliott を、1973年には次男 Damon Elliott を出産。1975年に別居後ついに同年離婚。離婚は裁判に発展し、William David Elliott は、Dionne Warwick が月10万ドル稼ぐのに対して自分は月500ドルしか収入がなかったと主張し、係争中である夫婦の共有財産に関する裁判に係る経費としての月5千ドルの経費を月2千ドルとするよう要求したが。裁判所はこの要求を拒否。2002年のテレビ番組のインタビューで Dionne Warwick は当時を振り返り、「私は一家の大黒柱だったわ。男のエゴなんて一円にもならないわよ。女が一家の大黒柱を務めるなんて大変なことなのよ。私の人生で金銭的に私を養ってくれた男性は父親だけよ。それ以外いつだって自分のことは自分で面倒を見てるわ。」と語っている。

1960年代半ばから1970年代初期にはゴールドディスクや TOP20、TOP10 入りヒットシングルを連発し、それまで以上の成功を収める。Burt Bacharach と Hal David のコンビが制作した「Message to Michael」は男性の歌であったが、1966年5月には U.S.Billboard Hot 100 第8位と TOP10 入りを果たす。

1967年1月リリースの6thスタジオアルバム「Here Where There Is Love」は、アメリカレコード協会(RIAA)から自身初となるゴールドディスクに認定。アルバムには1967年のヒット曲「Alfie」の他、1966年のヒット曲「Trains and Boats and Planes」と「I Just Don't Know What to Do with Myself」も収録。「Alfie」は、アメリカ全土のディスクジョッキーが1967年初めにアルバムからのシングルカット曲として盛んにオンエアするようになりラジオでヒットしたが、元々シングルとしては Burt Bacharach と Hal David のコンビによるバラッド曲「The Beginning of Loneliness」の B面であった。ラジオのディスクジョッキーたちは、このシングルの両面をとっかえひっかえしてオンエアしたため、両面の楽曲ともにヒットを記録。Burt Bacharach は、「Alfie」を俳優の Michael Caine 主演映画「Alfie」のテーマ曲とするよう契約し、Dionne Warwick にこの曲を歌わせるよう主張したが、イギリスの映画プロデューサー陣はイギリスのシンガー Cilla Black をシンガーに決定。結果的に Cilla Black ヴァージョンはアメリカでは U.S.Billboard Hot 100 第95位に止まるものの、イギリスとオーストラリアでは TOP10 ヒットとなる。一方アメリカ上映で使用されたアメリカのシンガー Cher のカヴァーヴァージョンは第33位を記録。

▼「Here Where There Is Love」6thアルバム
画像



Dionne Warwick は、1983年にアメリカの公共放送サービス PBS で放映されたコンサートに出演した際、「Alfie」は Dionne Warwick のヒット曲だという Burt Bacharach の主張に対して、自分は「Alfie」をレコーディングした43番目のアーティストであると返している。Dionne Warwick は最初、この楽曲のレコーディングをためらい、「君の「Alfie」が最後だよ。」と繰り返す Burt Bacharach に「どれだけ多くのヴァージョンを作れば気が済むの?」と尋ねていた。Burt Bacharachは 独自の新しいアレンジを付けること、更に1テイクのみでレコーディングを終了することを条件に Dionne Warwick をスタジオ入りさせる。その結果、Dionne Warwick ヴァージョンは、U.S.billboard Hot 100 第15位、R&B Chart と Adult Contemporary Charts の両方で第1位を獲得する大ヒットとなり、1967年にはアカデミー賞授賞式で歌を披露。こうして今日「Alfie」は、Dionne Warwick の楽曲として世に認められることとなった。

同年末、1967年リリースの8thスタジオアルバム「The Windows of the World」からのシングルカット曲「I Say a Little Prayer」(邦題:「小さな願い」)がアメリカで1千万枚を越える売上げを記録し、アメリカレコード協会(RIAA)からシングルとしては自身初となるゴールドディスク認定を受ける。国内のディスクジョッキーたちがアルバムからこのシングル曲をオンエアし始め、シングルカットの声が高まると、Scepter Records 社長の Florence Greenberg はその声に応え、シングルカットされた「I Say a Little Prayer」は、U.S.Billboard Hot 100 と Canadian Charts で第4位、U.S.Billboard R&B Charts で第8位を記録し、アメリカにおける Dionne Warwick 最大のヒットシングルとなった。この楽曲は Burt Bacharach と Hal David のコンビにとってもアメリカでミリオンセラーを記録し、ゴールドディスク認定を受けた初シングルとなった。なお、後にリリースされた Aretha Franklin によるカヴァー曲も U.S.Billboard Hot 100 第10位を記録している。

続くシングル「(Theme from) Valley of the Dolls」は、いくつかの点で異例尽くしのシングルとなる。この楽曲は Burt Bacharach と Hal David コンビによる作品ではなく、かつ前作「I Say a Little Prayer」の B面で、Dionne Warwick もほとんどレコーディングに関わらなかった。この楽曲は、音楽制作チーム Andre and Dory Previn が映画「Valley of the Dolls」のテーマ曲として制作した楽曲で、主演女優の Barbara Parkins が Dionne Warwick に歌ってもらいたいと提案したため、当初レコーディング予定であった女優の Judy Garland を変更して急遽レコーディングされたものであった。映画のヒットに伴いラジオ局のディスクジョッキーたちが「(Theme from) Valley of the Dolls」の B面を返してオンエアし、結果的にシングル両面がミリオンセラーを記録するヒットとなる。なお、アメリカレコード協会(RIAA)のルールにより、両面がヒットしたものの先にヒットしていた A面の「I Say a Little Prayer」だけしかゴールドディスク認定を受けることができなかったため、Scepter Records は、「(Theme from) Valley of the Dolls」のミリオンセラーの功績を称えて Dionne Warwick を社内表彰している。

Dionne Warwick が歌ったこの「(Theme from) Valley of the Dolls」は、Scepter Records と 20世紀フォックスの契約上、Scepter Records が映画のサウンドトラック盤への収録を許可しない一方、20世紀フォックスも他のいかなるLPレコードにも楽曲の使用を認めないという相互の法的制約があったため、Dionne Warwick は、Pat Williams のアレンジによりニューヨークの A&R Studios で改めてレコーディングし直すことになる。この再録ヴァージョンを収録した9thスタジオアルバム「Dionne Warwick in Valley of the Dolls」は1968年初めにリリースされ、再録ヴァージョンは、U.S.Billboard Hot 100 4週連続で第2位を記録。この他シングル「Do You Know the Way to San Jose?」や Burt Bacharach と Hal David コンビが制作した楽曲を含むこのアルバムは、U.S.Billboard 200 第6位をヒットを記録。年間を通じてチャートにランクインし、アメリカレコード協会からゴールドディスクに認定。その一方で Dionne Warwick の楽曲が収録されなかった映画のサウンドトラック盤は、残念ながら泣かず飛ばずに終わった。

▼「Dionne Warwick in Valley of the Dolls」9thアルバム
画像



アルバムからのシングルカット曲「Do You Know the Way to San Jose?」は、U.S.Billboard Hot 100 第10位を記録するとともに世界的なミリオンセラーとなり、イギリス、カナダ、オーストラリア、日本など多くの国でヒットチャート TOP10 入りを記録。B面の「Let Me Be Lonely」も U.S.Billboard Hot 100 第71位を記録し両面でヒットを記録した。その後も1971年にかけてヒット曲を出し続け、1968年、U.S.Billboard Hot 100 第33位を記録した「Who Is Gonna Love Me」の B面「(There's) Always Something There to Remind Me」がヒット。以降も1968年「Promises, Promises」(第19位)、「Who Is Gonna Love Me?」(第33位)、1969年「This Girl's in Love with You」(第7位)、「The April Fools」(第37位)、「You've Lost That Lovin' Feelin'」(第16位)、「I'll Never Fall in Love Again」(邦題:「恋よさようなら」)(第6位)、1970年「Make It Easy on Yourself」(第37位)、「Let Me Go to Him」(第32位)、「Paper Mache」(第43位)と、現在もスタンダードナンバーとして親しまれているヒット曲を連発する。1971年3月には、Burt Bacharach と Hal David コンビによる最後のシングル「Who Gets the Guy」と、Scepter Records 最後の公式シングルとなる「He's Moving On / Amanda」をリリース。いずれも女流小説家 Jacqueline Susann ベストセラー小説を原作とした映画「The Love Machine」のサウンドトラックからのシングルカット曲であった。

こうして Dionne Warwick は、1971年末までの僅か9年足らずでワールドワイドに推計で3億5千万枚のシングルとアルバムを売り上げ、アメリカ国内だけでも1億6千万枚以上のシングルを売り上げて Scepter Records の看板アーティストとなった。Scepter Records はアメリカレコード協会の審査のための記録を提出しておらず、明らかに会計方針と会社方針が緩かったため、売上げの正確な数字は明確になっておらず、前述の数字も過小評価であると考えられている。そうした状況において Dionne Warwick は、1967年に「I Say a Little Prayer」のリリースでアメリカレコード協会から売上げ記録を照会された Scepter Records 初のアーティストとなった。

1971年、Scepter Records の家族的な環境を離れ、エンターテイメント産業専門の業界雑誌「Variety」によれば女性ヴォーカリストとしてそれまでで最も高額な契約金となる5千ドルで Warner Bros. Records へ移籍。Scepter Records 最後のアルバムは、1971年7月にリリースされた前述の映画「The Love Machine」のサウンドトラックとなった。

1975年、Burt Bacharach と Hal David のコンビは、Dionne Warwick とレーベル仲間のポップシンガー B.J. Thomas のレコーディングから生じるコンビへ著作権使用料の適正な支払いを求めて Scepter Records を提訴。その結果 Burt Bacharach と Hal David は、約60万ドルと Scepter Records における彼らの全ての作品に関する権利を得る。Warner Bros. Records へ移籍により Dionne Warwick という看板アーティストを失った Scepter Records は1975年に破産を申請し、1976年には Springboard International Records に身売りすることになった。

Warner Bros. Records 移籍に伴い Burt Bacharach と Hal David のコンビとも作曲家、プロデューサー契約を締結。1971年末にはニューヨークにある A&R Studios でセルフタイトルとなる新作15thスタジオアルバム「Dionne」(後に Arista Records からも同タイトルのアルバムをリリース)のレコーディングを開始し、1972年1月にリリース。このアルバムは U.S.Billboard 200 第54位を記録。1972年、Burt Bacharach と Hal David のコンビは、映画「Lost Horizon」(邦題:「失われた地平線」)用の楽曲を制作するが、映画は批評家に酷評され、それが原因となって Burt Bacharach と Hal David は音楽制作におけるコンビの解消を決定。このコンビ解消により Dionne Warwick はプロデューサーと作詞・作曲家の両方を失うこととなる。このため Burt Bacharach と Hal David 抜きで Warner Bros. Records との契約を履行することを余儀なくされ、レーベル在籍中様々なプロデューサーとチームを組むことになった。

▼「Dionne」15thアルバム
画像



Burt Bacharach と Hal David は、そのコンビ解消により Dionne Warwick との契約を一方的に破棄したことで、状況は Warner Bros. Records による訴訟に発展。Dionne Warwick は二人に対して契約違反に対する賠償金として5千5百万ドルを要求。1979年、Burt Bacharach と Hal David がプロデュースして Warner Bros. Records からリリースされた全ての楽曲に関する権利を含め Burt Bacharach と Hal David が5千万ドルを支払うことで示談が成立した。

◆ Warner Bros. Records 時代(1971年‐1978年)

しかしながら Burt Bacharach と Hal David コンビとの音楽活動上の関係を解消した Dionne Warwick のキャリアは、1970年代に低迷することになる。

1974年、ソングライター・アレンジャー・レコードプロデューサーである Thom Bell のプロデュースによりリリースしたソウルヴォーカルグループ The Spinners とのデュエット曲「Then Came You」が Billboard Hot 100 第1位を獲得した以外、10年間大きなヒット曲はなく、Warner Bros. Records 在籍の5年間、同じく Thom Bell が1975年にプロデュースした「His House and Me」と「Once You Hit The Road」の2曲もマイナーヒットに終わる。

なお、低迷期の1970年代には Burt Bacharach と Hal David のコンビがプロデュースしてヒットした15thアルバム「Dionne」(1972年)、Holland-Dozier-Holland プロデュースによる16thアルバム「Just Being Myself」(1973年)、Jerry Ragovoy プロデュースによる17thアルバム「Then Came You」(1975年)、Thom Bell プロデュースによる18thアルバム「Track of the Cat 」(1975年)、Steve Barri と Michael Omartian のプロデュースによる19thアルバム「Love at First Sight」(1977年)と計5枚のアルバムをリリースしたが、いずれも成績的には芳しくなく、1977年には Warner Bros. Records との5年契約が終了し、レーベルを去ることになる。

◆ Arista Records 時代(1980年代)

1978年、Arista Records に移籍。1979年に Barry Manilow がプロデュースした「I'll Never Love This Way Again」(邦題:「涙の別れ道」)でミリオンセラーを記録し、再び音楽チャートのトップに返り咲く。同曲を収録した20thスタジオアルバム「Dionne」は、アメリカ国内で1千万枚を売り上げてプラチナディスクを獲得。U.S.Billboard Hot 200 第12位、U.S.Billboard Top R&B/Hip-Hop Albums Chart 第10位と記録するヒットとなる。

▼「Dionne」20thアルバム
画像



音楽活動が低迷していた当時、Dionne Warwick は Arista Records の創設者である Clive Davis から「君は歌うことを諦めようと考えているかもしれないけれど、歌は君を諦めようとはしていないよ。」といった言葉で個人的にも示唆を受けており、こうした信頼関係が Arista Records への移籍のきっかけにもなったと推察される。

続くアメリカのシンガーソングライター Isaac Hayes と共作したシングルカット曲「Deja Vu」も U.S.Billboard Adult Contemporary Chart 第1位、U.S.Billboard Hot 100 第15位とメジャーヒットを記録。1980年には「I'll Never Love This Way Again」(邦題:「涙の別れ道」)でグラミー賞「Best Pop Vocal Performance, Female(女性ベスト・ポップ・ヴォーカル賞)」を、また「Deja Vu」で「Best R&B Vocal Performance, Female(女性ベスト・R & B ・ヴォーカル賞)」を受賞。グラミー賞史上同じ年に両賞を同時受賞した最初の女性アーティストとなった。同年、Arista Records レーベル第二弾となる21thスタジオアルバム「No Night So Long」をリリース。アメリカ国内で50万枚を売上げ U.S.Billboard 200 第23位を記録するとともに、シングルカットされたタイトルトラック「No Night So Long」は、U.S.Billborad Hot 100 第23位、Adult Contemporary Chart 第1位を獲得し、商業的にも大成功を収めた。

▼「No Night So Long」21thアルバム
画像



1982年4月、22thスタジオアルバム「Friends in Love」をリリース。タイトルシングルでポップ・ジャズシンガー Johnny Mathis とのデュエット曲「Friends in Love」が U.S.Billboard Hot 100 第38位と TOP40 入りを記録。続く同年9月に Bee Gees の Barry Gibb 制作による23thスタジオアルバム「Heartbreaker」をリリース。タイトルシングル「Heartbreaker」は、U.S.Billboard Hot 100 第10位、U.S.Billboard Adult Contemporary Chart 第1位を獲得。イギリスとオーストラリアのシングルチャートで共に第2位を獲得するなど Dionne Warwick がワールドワイドに最もヒットさせた一曲となった。また世界的にもヨーロッパ、日本、南アフリカ、カナダ、アジア諸国で音楽チャート TOP10 入りするヒットを記録。世界中で3千万枚以上を売上げ、アルバムもアメリカレコード協会からゴールドディスクに、またイギリスではプラチナディスクに認定された。

▼「Friends in Love」22thアルバム
画像


▼「Heartbreaker」23thアルバム
画像



1983年9月、アメリカのシンガーソングライター、プロデューサーである Luther Vandross プロデュースによる24thスタジオアルバム「How Many Times Can We Say Goodbye 」をリリース。タイトルシングルで Luther Vandross とのデュエット曲「How Many Times Can We Say Goodbye」は、U.S.Billboarf Hot 100 第27位、Adult Contemporary Chart 第4位、Hot R&B/Hip-Hop Songs 第7位とアルバム収録曲中最大のヒットとなり、アルバム自体も U.S.Billboard 200 第57位を記録する。また アルバム収録曲でカヴァー曲である「Will You (Still) Love Me Tomorrow?」のレコーディングのために、オリジナルのヴォーカルグループ Shirelles が再結成して参加するというサプライズもあった。

1984年、Barry Manilow と、妻である Carole Bayer Sager を作詞家にして作曲活動を行っていた Burt Bacharach と再びタッグを組んで25thスタジオアルバム「Finder Of Lost Loves」をレコーディング、1985年1月にリリース。

▼「Finder Of Lost Loves」25thアルバム
画像



1985年、Michael Jackson、Diana Ross、Ray Charles などのヴォーカリストと共にアフリカの飢餓と貧困層を解消する目的で作られたキャンペーンソングでグラミー賞受賞作品である「We Are the World」に USA for AFRICA の一員として参加。この楽曲は、U.S.Billboard Hot 100 4週連続第1位を獲得。アメリカだけで4度もプラチナディスクに認定される1985年最大のヒット曲となった。

1985年、Gladys Knight、Elton John、Stevie Wonder と並んでアメリカエイズ研究財団(AmFAR)チャリティーシングル「That's What Friends Are For」(邦題:「愛のハーモニー」)をレコーディング。「Dionne and Friends」とクレジットされたこのシングルは同年10月にリリースされ、3千万ドル以上を売り上げるとともに、U.S.Billboard Hot R&B/Hip-Hop Songs Chart、Adult Contemporary Chart、Hot 100 の全てで第1位を獲得。特に U.S.Billboard Hot 100 では、1986年前半に4週連続で第1位を獲得した。同シングルにより制作者である Burt Bacharach と Carole Bayer Sager のコンビはグラミー賞「Song of the Year(年間最優秀曲賞)」を、パフォーマンスに参加した Dionne and Friends は「Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocal(ベスト・ポップグループ賞)」をそれぞれ受賞。また Billboard 誌もこの楽曲を1986年最も人気を博した楽曲にランキング。この「That's What Friends Are For」を収録した26thスタジオアルバム「Friends」は、U.S.Billboard 200 第12位を記録し、Dionne Warwick が1980年代にリリースしたアルバムの中で最も成功したアルバムとなった。

▼「Friends」26thアルバム
画像



1987年、シングル「Love Power」もヒットを記録。この楽曲は Smokey Robinson や June Pointer など多くのアーティストをフィーチャーした27thスタジオアルバム「Reservations for Two」からシングルカットされた Burt Bacharach と Carole Bayer Sager 制作による Jeffrey Osborne とのデュエット曲で、自身のキャリア上8回目となる U.S.Billboard Adult Contemporary Chart 第1位を獲得するとともに U.S.Billboard Hot R&B/Hip-Hop Songs Chart 第5位、U.S.Billboard Hot 100 第12位を記録。Kashif とのデュエット曲であるアルバムタイトルシングル「Reservations for Two」も U.S.Billboard Adult Contemporary Chart 第7位とチャートヒットを記録した。

▼「Reservations for Two」27thアルバム
画像



◆ 1990年代から現在まで

1990年、Arif Mardin プロデュースによる28thスタジオアルバム「Dionne Warwick Sings Cole Porter」をリリース。

1990年代、Dionne Warwick は霊能者「Linda Georgian」と称して電話(電話番号「900」)による占いサービス(昔で言うダイヤルQ2のようなもの)「Psychic Friends Network」のテレビコマーシャル番組の司会者を務める。この占いサービスは1991年から1998年にかけてアメリカで普及し、コマーシャル番組は大成功。Dionne Warwick はその広報担当として年3千万ドルを越える収入を得た。1998年、サービスの運営企業が倒産し、Dionne Warwick の企業との関わりは終了したが、アメリカではこの「サイキックレディー」としてのイメージが今なお強烈に残っているとのことである。

1990年代を通じて最も広報されたアルバムが、1993年1月リリースの Ian Devaney、Lisa Stansfield らがプロデュースで参加した29thスタジオアルバム「Friends Can Be Lovers」である。1972年に Burt Bacharach と Hal David のコンビが Dionne Warwick のために初めて制作した楽曲「Sunny Weather Lover」をリードシングルとしてアメリカでリリースし、Arista Records が重点的にプロモーション活動を展開したが、チャート的には失敗に終わる。続くシングル「Where My Lips Have Been」も、U.S.Billboard Hot R&B/Hip-Hop Singles & Tracks Chart で第95位に止まる。こうした不振を受け、1994年リリースの30thスタジオアルバム「Aquarela Do Brasil」を最後に Arista Records との契約を終了。

▼「Friends Can Be Lovers」29thアルバム
画像


▼「Aquarela Do Brasil」30thアルバム
画像



1990年、ドイツのポップデュオ Modern Talking の元メンバーで当時ドイツのポップグループ Blue System のメンバーであった Dieter Bohlen とのデュエット曲「It's All Over」をリリースし、ドイツのポップチャートで 第60位を記録。この楽曲は、Dieter Bohlen が所属する Blue System のアルバム「Deja Vu」でもカヴァーされた。

Arista Records との契約を終了後、実質的にオリジナルアルバムのリリースは行っておらず、専らコンピレーションアルバムをリリース。メインストリームでの活躍は1990年代で終わることとなる。

2002年10月16日、国際連合食糧農業機関の親善大使に推薦。2004年、1stクリスマスアルバム「My Favorite Time of the Year」をリリース(2007年、Rhino Records から新ジャケットにより再販)。

2002年、マイアミ国際空港でマリファナ所持の容疑で逮捕される。

2006年、15年間在籍した Arista Records を1994年に離れて以来、ようやく Concord Records と契約。新レーベルからの第一弾アルバムとなる過去のヒット曲のリメイクヴァージョンを含むデュエットアルバムである33thスタジオ・アルバム「My Friends and Me」(邦題:「マイ・フレンズ・アンド・ミー~バート・バカラックへの想い」)をリリース。このアルバムは1998年に River North Records からリリースした「Dionne Sings Dionne」と非常に似通ったアルバムとなった。こうしたせいもあってか、Gloria Estefan、Olivia Newton-John、Wynonna Judd、Reba McEntire らがデュエットで参加し、息子の Damon Elliott がプロデュースした渾身のアルバムは、期待に反して U.S.Billboard Top R&B/Hip-Hop Albums Chart 第66位に止まる。この結果、Dionne Warwick の過去のヒット曲を男性ヴォーカリストとデュエットする次回作の企画はキャンセルとなり、Concord Records との契約関係はこの「My Friends and Me」1枚のリリースをもって終わりを告げることとなった。

▼「My Friends and Me」33thアルバム
画像



2008年2月16日、Sony BMG Music Entertainment からコンピレーションアルバム「The Love Collection」が UK Albums Chart 第27位を記録。

2008年上旬、妹の Dee Dee Warwick と BeBe Winans が参加して、1969年の12thスタジオアルバム「Soulful」に次いで自身2作目となるゴスペルアルバム「Why We Sing」を Rhino Records からリリース。同年10月、数か月間健康を害していた Dee Dee Warwick が死去。

2012年、Phil Ramone プロデュースにより Burt Bacharach、Hal David コンビによる12曲を収録したデビュー50周年記念レコード「NOW」をリリース。

1991年から1999年の間の米国国税庁への滞納額約7千万ドルとカリフォルニア州への事業税滞納額3千万ドル以上の滞納を含む多額の負債を抱え、税当局の合意なしに解決は不可能な状況となったため、彼女と彼女の弁護士は自己破産申請が最善策と判断。2013年3月21日、事業の失敗を理由にニュージャージー州の破産裁判所に自己破産を申請する。

2015年1月24日、自宅でシャワーを浴びている最中に転倒し病院へ搬送され、足首の手術後退院。

(出典:「Dionne Warwick」(13 March 2017 22:52 UTC) 『Wikipedia英語版』他)

▼ Dionne Warwick(近年)
画像



*この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表された Wikipedia の項目「Dionne Warwick」を素材として二次利用しています。


love3  最後まで御覧いただきありがとうございました。よろしければ1拍手いただけるとうれしいです。


スポンサーサイト



  

● COMMENT FORM ●


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://758ongakudohonpo.blog.fc2.com/tb.php/317-67529e68
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

名古屋音楽堂本舗 «  | BLOG TOP |  » 古内東子 「夢の続き」

プロフィール

香山蔵之介

Author:香山蔵之介
名古屋音楽堂本舗の店主香山蔵之介による音楽講評です。
Life is music. Music is life.
Let's enjoy music for your wonderful life.

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

邦楽(あ行) (32)
邦楽(か行) (25)
邦楽(さ行) (31)
邦楽(た行) (12)
邦楽(な行) (10)
邦楽(は行) (25)
邦楽(ま行) (5)
邦楽(や行) (11)
邦楽(ら行) (9)
邦楽(わ行) (2)
洋楽(あ行) (19)
洋楽(か行) (10)
洋楽(さ行) (29)
洋楽(た行) (11)
洋楽(な行) (0)
洋楽(は行) (18)
洋楽(ま行) (4)
洋楽(や行) (1)
洋楽(ら行) (14)
洋楽(わ行) (1)
洋画(か行) (2)
洋画(は行) (1)
アート (6)
文化 (13)
ファッション (1)
グルメ (7)
PC (1)
健康 (1)
BLOG (3)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

アクセス数

オンライン数

現在の閲覧者数:

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログランキング

ブログランキング参加中


ブログランキング参加中

Please Click !