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2020-05

Bee Gees 「Spirits Having Flown」

Bee Gees 「Spirits Having Flown」■ アルバムデータ
タイトル:Spirits Having Flown
アーティスト:Bee Gees
リリース:1979年2月5日
レーベル:RSO Records

アルバム総評価:92


■ 曲目リスト
  №  曲          名評       価  MV  
01  Tragedy  ★★★★★  youtube02
02  Too Much Heaven★★★★★youtube02
03  Love You Inside Out★★★★★youtube02
04  Reaching Out★★★★☆youtube02
05  Spirits(Having Flown)          ★★★★★youtube02
06  Search, Find★★★★★youtube02
07  Stop(Think Again)★★★★☆youtube02
08  Living Together★★★★★youtube02
09  I'm Satisfied★★★★☆youtube02
10  Until★★★★☆youtube02


■ 講評
今回紹介するアルバム「Spirits Having Flown」は、イギリス出身の Gibb 3兄弟によるポップグループ Bee Gees が1979年に RSO Records からリリースした15thスタジオアルバムである。当時アルバムに付けられた日本語タイトルは、「失われた愛の世界」であった。

本作は、グループが楽曲を提供してワールドワイドに大ヒットを記録した1977年の映画「Saturday Night Fever」のサウンドトラック後、グループとして初めてリリースしたアルバムとなる。

Barry Gibb、Karl Richardson、Albhy Galuten の3人が、前作「Children of the World」に引き続きプロデュースを担当。全曲 Barry、Robin、Maurice の Gibb 3兄弟が作曲し、Robin と Barry がツインヴォーカルを務めた「Living Together」を除き、全曲のリードヴォーカルを Barry が務めている。

バックバンドには、オリジナルバンドである Bee Gees バンドの Alan Kendall(Lead Guitar)、Blue Weaver(Synthesiser, Piano, Keyboards, Vibraphone, Arp)、Dennis Bryon(Drums)が参加。またそれ以外にも、Neal Bonsanti(Horns)、Gary Brown(Saxophone)、Harold Cowart(Bass)、Ken Faulk(Horns)、Herbie Mann(#5,#9,Flute)、ロックバンド Chicago のホーンセクションである James Pankow(Horns)、Walt Parazaider(Horns)、Lee Loughnane(Horns)の3名など専らホーン系のサポートミュージシャンが多数参加している。

▼「Spirits Having Flown」
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▼「Spirits Having Flown」ジャケット裏面
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▼「Spirits Having Flown」ジャケット中面
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▼「Spirits Having Flown」ジャケット中面見開き
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▼「Spirits Having Flown」インナーシート
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▼「Spirits Having Flown」LP盤ラベル
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▼ グッズ通販用チラシ
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アルバム収録曲の内、「Too Much Heaven」(UK:1978年10月,US:1978年11月)、「Tragedy」(1979年2月)、「Love You Inside Out」(1979年4月)の3曲がシングルカットされ、全てが U.S.Billboard Hot 100 第1位を獲得。Bee Gees は、これにより6曲連続で U.S.Billboard Singles Chart 第1位を獲得するという快挙を遂げたが、これは The Beatles に並ぶ記録となった。ちなみにこの記録は、1988年に Whitney Houston により破られている。また、映画「Saturday Night Fever」のサウンドトラックを除き、過去10年間で初めてイギリスで UK Albums Chart Top40 入りを果たしたアルバムとなり、それも第1位という最高の成績を記録。更に、アメリカでも U.S.Billboard 200 第1位を獲得し大ヒットするなど、ワールドワイドに2億枚を売り上げ、アメリカ・イギリスの両国でプラチナディスクに認定。チャート的にも世界各国のアルバムチャートで第1位を獲得するなど、グループとして最大の人気を博したスタジオアルバムとなった。ちなみに、「Too Much Heaven」と「Tragedy」は、Bee Gees の出演映画「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」の撮影終了後の午後に一気に書き上げられたとされている。

だが、皮肉にもこのアルバムはその大ヒットが故に、同時にグループが最も成功した時期の終焉を告げるアルバムともなった。Bee Gees は、このアルバムリリース後の1980年代前半には、メンバーの Robin Gibb にラジオ局による「検閲」、「悪事」とまで言わしめた、特にアメリカのラジオ局でほぼ全面的に彼らの楽曲がオンエアされなくなるという報道管制のごとき異常事態に耐え忍ばなければならないほどの厳しい人気の凋落を迎えることになるのであった。

▼「Too Much Heaven」France盤
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▼「Too Much Heaven」Italy盤
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▼「Too Much Heaven」Netherlands盤
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▼「Too Much Heaven」Germany盤
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▼「Too Much Heaven」Belgium盤
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▼「Too Much Heaven」日本盤
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▼「Tragedy」Austria盤
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▼「Tragedy」France盤
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▼「Tragedy」日本盤
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▼「Love You Inside Out」US盤
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▼「Love You Inside Out」Germany盤
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▼「Love You Inside Out」France盤
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▼「Love You Inside Out」Italy盤
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▼「Love You Inside Out」Netherlands
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▼「Love You Inside Out」日本盤
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アルバムの制作状況を見ると、着手直前の1978年年初、Barry Gibb は、当時ティーンアイドルとしてソロで活躍していた Gibb 兄弟の末っ子 Andy Gibb の2ndアルバム「Shadow Dancing」のプロデュースを担当するとともに、2月までにアメリカのポップシンガー Frankie Valli が歌う John Travolta と Olivia Newton-John 主演映画「Grease」のタイトルソングを作曲するなど多忙を極めており、、同じく2月、もう一人のメンバーである Barry Gibb も、1977年に作曲した「Ain't Nothing Gonna Keep Me from You」をアメリカのシンガーソングライター Teri DeSario がレコーディングするのに関わるなど、年初からメンバーそれぞれが仕事をこなしており、そうした状況の中で3月までにこのアルバムのレコーディングを開始しなければならない状況にあった。

このため、最初は主に共同プロデューサーである Barry Gibb、Karl Richardson、Albhy Galuten の3人が昼夜を問わずレコーディングスタジオに缶詰になって制作を進めていたものの、ハードスケジュールの中、Bee Gees バンド等他のスタッフも巻き込んで作業を進めざるを得なくなってしまう。

こうしたタイトなスケジュールの中で Robin Gibb は、影ながら作曲に関与しその結果をレコーディングに反映させようと Barry に協力を申し出たが、その一方で Maurice Gibb がアルバム制作に貢献することはほとんどなかった。これは Maurice がアルコール依存症により創造性が衰えていただけでなく、1980年に発症した背中の痛みによるためで、Barry と Robin は、内々に代わりのベーシストを採用しようとまで考えたが、結果的に Maurice の意思を尊重して Maurice がベースを演奏することになったと言われている。

レコーディングの段階で、Robin と Maurice は、主に バックとハーモニーヴォーカルを担当。Barry は、持ち前の技術を駆使して自分のヴォーカルを多重録音してヴォーカルを編集。Robin は、「Living Together」で Barry のファルセットヴォーカルと交替でツインヴォーカルの一方を担当したが、この結果、この「Spirits Having Flown」が、Robin がグループを離れていた1970年にリリースされた7thアルバム「Cucumber Castle」を除いて Bee Gees のアルバムの中で Robin のメインヴォーカルを担当した楽曲数が最も少ないアルバムとなった。一方 Maurice は、グループ最後の4枚のアルバムと同様、リードヴォーカルを担当することはなかった。

Bee Gees は、映画「Saturday Night Fever」のサウンドトラック以降、ディスコグループとして効果的に音楽活動を展開したが、メンバーの一人である Barry は、1978年のインタビューで「みんな僕たちのことをディスコバンドそのものだと思っているけれど、もちろんそれは真実ではないんだよ。もし「Saturday Night Fever」のサウンドトラックを聴いたなら、ダンスミュージックだけじゃなくて「More Than A Woman」のようなバラッドも歌っているだろ。」と答えているように、必ずしも自分たちがディスコグループとして見られていることを快く思っていなかったようで、そうしたイメージを払拭すべく、本作の第一弾シングルには、バラッド曲「Too Much Heaven」が選曲されている。

本作のレコーディングには、ロックバンド Chicago のホーンセクションである James Pankow、Walt Parazaider、Lee Loughnane らが参加。同時期、彼らは隣のスタジオで自分たちの10thアルバム「Hot Streets」のレコーディング中であったこともあり、Bee Gees は、Chicago の「Hot Streets」収録曲「Little Miss Lovin」に、また Bee Gees バンドのキーボード奏者 Blue Weaver も「No Tell Lover」に参加することでその協力に報いた。更に Bee Gees は、このレコーディング中に「Desire」という楽曲もレコーディングしたが、結局この楽曲は本作には収録されず、Andy のソロシングルとしてリリースされることになる。

こうしてアルバム「Spirits Having Flown」は、「Billboard magazine」と「Rolling Stone」の二大音楽誌に全面広告を掲載してレコーディング開始から約1年後となる1979年2月にリリースされ、長文にわたる肯定的な講評を得る。本作は、米英両国を含め数多くの国で音楽チャート第1位を獲得するヒットを記録。シングルリリースされた「Tragedy」、「Too Much Heaven」、「Love You Inside Out」の3曲も、全曲 U.S.Billboard Hot 100 第1位を獲得。なお、タイトルトラック「Spirits Having Flown」も、1979年12月にイギリス他アイルランド、ニュージランドと数か国で、ベストアルバム「Bee Gees Greatest」のプロモーション用にリリースされている。

▼「Spirits(Having Flown)」Netherlands盤
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▼「Spirits(Having Flown)」日本盤
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アルバムは、1997年時点でワールドワイドに2億枚以上を売上げ、2003年には、イギリス国営放送 BBC から3億枚を売り上げたことで賞を受賞。アメリカレコード協会からはプラチナディスクに認定され、日本でもオリコン発表で25万9千枚を売り上げたとされている。ただし、リリース元の RSO Records は、公式に販売枚数を確定しておらず、多くの記事やウェブサイトでアメリカのみで600万枚以上を売上げたとされているが、こうした数字も公式なものではないとされている。このため、公にされている「世界で最も売れたアルバム」には、このアルバムの名前は掲載されていない。

ただ、このアルバムが Bee Gees のアルバムの中でも非常に売れてワールドワイドに最も高いチャートを獲得したスタジオアルバムであることに疑いの余地はなく、1980年の American Music Awards では、1979年のベストポップ・ロックアルバム賞も受賞している。

▼ The Bee Gees
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洋楽史上、超イントロクイズ並みにほんの僅かその歌声を聴いただけでどのグループか分かってしまうほど個性的な歌声のヴォーカルを擁するグループは少なくないが、その代表格ともいえるのが Bee Gees ではないだろうか。独特なアーティフィシャルでハイトーンな歌声のコーラスグループとしても知られており、男性3人兄弟という構成もなかなか珍しいグループであった。またその活動時期でサウンド指向を大きく転換していることも特徴的で、映画音楽との関わりが深いこともあって日本でも非常にファンが多く、歌声と名前が一致するほど広く知られた洋楽グループの一つとなっている。

特に、活動前期を代表する1971年のイギリス映画「Melody」(邦題:「小さな恋のメロディ」)のサウンドトラック収録曲「Melody Fair」と、中後期を代表する1977年のアメリカ映画「Saturday Night Fever」のサウンドトラック収録曲「How Deep Is Your Love」、「Stayin' Alive」、「Night Fever」の3曲は、その頃青春時代を過ごした世代の中には忘れられない思い出のメロディとなっている方も多いのではないだろうか。Mark Lester と Tracy Hyde が織り成すロンドンを公立学校を舞台にしたラブストーリー「小さな恋のメロディ」も、特に日本で大ヒットし、主演の二人がアイドル的存在として雑誌の表紙を飾るなど人気を博して話題となり、日本限定でシングルリリースされた「Melody Fair」も、オリコンチャート第3位と大ヒットを記録したが、個人的には特にディスコダンスの概念を変えたともいわれる革新的なダンス映画で、今ではハリウッドの大スターである John Travolta の出世作でもある「Saturday Night Fever」がまさに青春時代そのもので、その斬新なステップとともに流れる Bee Gees のダンスサウンドが当時の若者に与えた影響は、今の若者には想像できないほど大きなものがあった(「フィーバー」という流行語は、この映画が語源となった。)と感じている。まさに Bee Gees サウンド自体がディスコミュージックの革新であったという感じだ。

結果的にその印象があまりに強過ぎたが故に、Bee Gees はそのサウンドの呪縛から抜け出すことができず、その反動をモロに受けて人気の凋落という辛酸をなめることになってしまうわけだが、今回紹介するアルバム「Spirits Having Flown」は、その「Saturday Night Fever」のサウンドトラックに続くアルバムとして、ある意味当時の「Saturday Night Fever」のサウンドトラック人気をそのまま引き継いで大ヒットしたようなアルバムといえなくもない。事実、本作の内容は、実はそれほどディスコ・ディスコしておらず、スロウバラッドやミディアムテンポのむしろ「Saturday Night Fever」以前のサウンドを思い起こさせるような楽曲が多く、「Night Fever」を彷彿とさせる楽曲といえば「Tragedy」しか思い浮かばないぐらいである。その意味では実にバランスが良く、Bee Gees の魅力をオールラウンドに体験することができるアルバムとなっており、ワールドワイドに数多くの国でチャート第1位を獲得した実績からも、Bee Gees のアルバムを1枚だけ聴くならぜひお勧めしたいアルバムとして、今回紹介させていただいた次第である。

改めて今このアルバムを聴くと、80年代から90年代にかけてソウルや R&B テイストなディスコミュージックがヨーロッパ系のユーロビートやハイエナジーサウンドへと移行し、更に進化する過程で、「Saturday Night Fever」以降の Bee Gees は、結局その潮流に乗ることはなかったわけだが、ユーロビートな Bee Gees ももしかすると結構イケたかもしれないと思う反面、そうしたサウンドの展開が実現しなかったのは、「Saturday Night Fever」のサウンドトラックの反動に対するグループの拒否感もあったのだろうかと勘ぐってしまうのだがいかがであろうか。いずれにせよメンバーそれぞれが健康面での不安を抱える中で活動を続けた Bee Gees にとって、アグレッシヴでエネルギッシュなダンスミュージックというカテゴリーは、必ずしも彼らが目指すべき理想のサウンドではなかったということなのかもしれない。

▼ The Bee Gees
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■ Bee Gees の概略及びメンバー紹介

Bee Gees(ビージーズ)は、1958年に結成された Barry、Robin、Maurice の Gibb 3兄弟によるポップミュージックグループである。数十年にわたってミュージックシーンの第一線で活躍する中で、特に1960年代後半から1970年代前半にかけてはポップミュージックシーンを代表するグループとして、また、1970年代後半はディスコミュージック全盛期を代表するグループとして、二つの異なる音楽指向で大成功を収めた。なお、英米ミュージシャンの多くは黒人音楽に少なからずも影響を受けたが、Bee Gees は美しいハーモニーで定評のある Donald Everly と Phillip Everly によるカントリーユニット The Everly Brothers からの影響を強く受けたと言われている。

グループは、3人兄弟によるタイトなハーモニーが特徴的で、初期のヒット曲が Robin の透明感溢れるビブラートをリードヴォーカルとしたのに対し、1970年代から80年代にかけての後期には、Barry の R&B テイストなファルセットがグループを象徴するサウンドとなった。また、全てのヒット曲の作詞・作曲を自ら行い、他のアーティストのヒット曲も作曲、プロデュースするなど才能を発揮した。

Bee Gees は、元々 Gibb 3兄弟を中心に他のメンバーも加えて結成されたが、1972年からは完全に兄弟のみのトリオ編成となり、全員が共通してボーカルを担当した。

◆ Barry Gibb(1946年9月1日生)写真:中央
182cmの長身で、Bee Gees 結成から数多くの楽曲は彼が作曲し、リードボーカルを担当。70年代中期以降、ファルセット唱法を積極的に導入した。

◆ Robin Gibb(1949年12月22日生 - 2012年5月20日没)写真:左
Maurice との二卵性双生児で次男。一時的に脱退し、その後復帰した。ソロ活動も積極的に行った。2012年5月20日病死。

◆ Maurice Gibb(1949年12月22日生 - 2003年1月12日没)写真:右
三男。ギター、ベース、そして Robin 同様にオルガン、メロトロン(The Beatles の「Strawberry Fields Forever」のイントロ部分でも使用された鍵盤楽器)、ハープシコードなどの楽器を演奏することができた。グループのライブバンドのバンドマスターでもあり、ステージではベースやオルガンを演奏することが多かった。2003年1月12日急逝。

▼ The Bee Gees のファイナルメンバー
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Bee Gees の3兄弟は、英国王室属領マン島でイギリス人の両親の下に生まれ、イギリスのマンチェスター州チャールトンで育ち、1955年には子供ながら3兄弟を含む5人で Bee Gees の元となるロックンロールグループ The Rattlesnakes を結成。その後家族でオーストラリアのクイーンズ州レッドクリフに移住し、さらにクリーブアイランドに移る。オーストラリアで Bee Gees としてデビュー。1966年には初ヒットシングル「Spicks and Specks」をリリース。その後1967年1月にイギリスに戻り、Robert Stigwood のプロデュースによりワールドワイドに活動を本格化する。

1963年にオーストラリアでレコードデビューし、1973年からはアメリカを中心に活動。1955年から息の長い活動を続け、「Massachusetts」、「Holiday」、「How Deep Is Your Love」、「Stayin' Alive」、「Night Fever」など、数多くのヒット曲を発表した。

こうして Bee Gees は、世界規模で2億2千万枚以上のレコードを売り上げ、世界で最もレコードを売り上げた音楽アーティストの一組となっており、こうした業績が評価され、1997年「イギリス初のファミリーによるハーモニーグループ」として「ロックの殿堂」入りを果たす。その際のプレゼンターは、同じく Wilson 3兄弟がハーモニーで参加したファミリーグループ The Beach Boys の伝説的リーダー Brian Wilson で、その祝辞は「Bee Gees よりレコードの売上げが多かったのは、 Elvis Presley と The Beatles と Michael Jackson と Garth Brooks と Paul McCartney だけだ。」という粋な内容であった。

2003年、Maurice が53歳の若さで急死。その後、Barry と Robin も45年に及ぶ Bee Gees としての活動に終止符を打つ。2009年、再結成をアナウンスするが、2012年5月、Robin が癌を始めとする長い闘病生活の末、62歳で死去。現在グループとして存命するメンバーは、Barry のみとなっている。

▼ The Bee Gees
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■ デビュー以前からオーストラリア時代まで

Bee Gees(ビージーズ)は、英国王室属領マン島生まれのイギリス人の三人兄弟を中心に構成された、男性ボーカルグループである。

Barry、Robin、Maurice の Gibb 3兄弟は、オートバイレースで有名な英国王室属領マン島に生まれた。1946年9月1日に Barry、1949年12月22日に Robin と Maurice が二卵性双生児として誕生。

1955年に父 Hugh Gibb の故郷、イギリスのマンチェスターにある Chorlton-cum-Hardy に移る。そこで教会の合唱団に所属し音楽活動を始める。自宅の近所には、後にイギリスのロックバンド Herman's Hermits のリード・ヴォーカルとして英米で大人気を博す Peter Noone 一家が住んでおり、Gibb 一家とは家族ぐるみの付き合いをしていたとのことである。

まもなく Barry(Guitar,Vocals)、Robin(Vocal)、Maurice(Vocal)の3兄弟に加え、友達の Paul Frost(Drums)と Kenny Horrocks(Tea-chest Bass)の計5人で子供ながらスキッフル/ロックンロールグループ The Rattlesnakes を結成。1957年、劇場での公演の際、レコードに合わせて口パクで演奏する予定がレコードが壊れてしまったため、仕方なく生歌を披露したところ、観衆から絶賛されたことがハーモニースタイルで歌う契機となったということで、これがその後のグループのヴォーカルスタイルを決定付ける出来事となったようだ。

1958年5月、Paul Frost と Kenny Horrocks が脱退し The Rattlesnakes は解散。1958年8月、Gibb 一家(両親、Barry、Robin、Maurice、姉の Lesley、末っ子 Andy の7人)は、父の仕事の都合により、オーストラリアのクイーンズランド州ブリスベンの北東の町レッドクリフに移住。一番下の弟 Andy(1958年3月5日生-1988年3月10日没)は、移住前のマンチェスターでまだ生まれたばかりであった。1960年、兄弟は、グループ名を新たに Wee Johnny Hayes and the Blue Cats として、小遣い稼ぎに音楽活動を再開する。そして3人は、演奏の依頼主であったダートトラックレースのプロモーター・ドライバーの Bill Goode に、地元ブリスベンのラジオ DJ Bill Gates(Microsoft 創業者とは別人)を紹介される。Bill Gates は、自分と Bill Goode のイニシャルからグループ名を新たに“The BG's”と名付け、それが後に“Bee Gees”に変わることとなる。このように Bee Gees というグループ名は、意外にも特に“Brothers Gibb”とは関係なく名付けられたグループ名だった。その後 Gibb 一家は、後にブリスベーン空港のためになくなることになるクイーンズランド州クリブアイランドに移り、そこで兄弟は Northgate State School へ通学する。

1960年に入ると、テレビ番組にも出演するようになり、その後レギュラー番組も持つようになる。1962年には、ツイストダンススタイルで知られるアメリカのシンガー Chubby Checker のサポートグループに抜擢され、これらの活動がオーストラリアのロックミュージシャンの先駆けで人気スターであった Col Joye の目に留まり、彼の尽力もあって1963年にはオーストラリアの Festival Records の系列レーベルである Leedon Records から Bee Gees のグループ名で「The Battle of the Blue and the Grey / The Three Kisses of Love」でレコードデビューを果たす。その後 Bee Gees は、年に2、3枚のシングルをリリースする傍ら、Barry は他のオーストラリアのアーティストに楽曲を提供。1963年から1966年まで、Gibb 一家はシドニーのマルーブラに居住。Robin Gibb は、亡くなる直前にこのシドニーで過ごした思い出を基に「Sydney」という楽曲をレコーディングしており、この楽曲は彼の死後、彼の7thソロアルバム「50 St. Catherine's Drive」に収録されている。なお、この家は2016年に取り壊されている。

1965年、1stアルバム「The Bee Gees Sing and Play 14 Barry Gibb Songs」をリリース。シングル「Wine and Women」がオーストラリアの ARIA Charts 第19位とマイナーヒットを記録する。しかしながら1966年以降、商業的な成功を収めることができず、Festival Records は、Leedon Records と Bee Gees の契約を解除する間際にまでに至る。この時、Bee Gees は、新鋭の独立系レーベルである Spin Records の A&R マネージャー(アーティストの発掘・契約・育成担当)に就任したばかりのアメリカ生まれの作曲家、プロデューサー、企業家 Nat Kipner と出会う。Nat Kipner は直ぐに彼らのマネージャーを引き受け、Festival Records とオーストラリアにおけるグループの音楽配給権の獲得を含め Spin Records への移籍交渉に成功。続けてグループをエンジニア・プロデューサーで初期の Spin Records のアルバムプロデュースを多く手掛けた Ossie Byrne に引き合わせる。Ossie Byrne はシドニー郊外のハーストビルに自分で設けたレコーディングスタジオを、1966年半ばの数か月間、事実上自由に使用できる権限をグループに与えた。後にグループは、これによってレコーディングアーティストとしての自分たちのスキルを大幅に向上させることができたと語っている。こうしてグループは、初のメジャーヒットとなる1966年リリースシングル「Spicks and Specks」を始め、数々のオリジナル曲や The Beatles のカヴァー曲などをレコーディングすることになる。

▼「The Bee Gees Sing and Play 14 Barry Gibb Songs」1stアルバム
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1966年11月、2ndアルバム「Spicks and Specks」をリリースしたものの、オーストラリアで不成功という挫折を経験し、3兄弟はイギリスへ戻ることを決意。プロデューサーの Ossie Byrne と後にグループにドラマーとして加入する Colin Petersen と共にイギリスに向かう途中の1967年1月、アルバムタイトル曲「Spicks and Specks」が、オーストラリアで最も有名で影響力のある音楽誌 Go-Set で「年間ベストシングル賞」を受賞したことを知る。

▼「Spicks and Specks」2ndアルバム
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■ 第一期(1967年-1969年)

オーストラリアからイギリスへ出発する前、父の Hugh Gibb は、The Beatles のマネージャーでそのマネージメント会社 NEMS Enterprise の経営でも知られる音楽企業家 Brian Epstein に Bee Gees のデモテープを送っており、Brian Epstein はそのデモテープを NEMS Enterprise に入社したての新人 Robert Stigwood に任せ、1967年2月、Robert Stigwood がオーディションを実施。この結果、Bee Gees はイギリスでのレコードリリースについて Polydor Records と、またアメリカでのレコードリリースについて Atlantic Records の子会社である Atco Records と5年契約を締結するに至る。その際、新人では前代未聞の25万ドルで契約し、話題騒然となる。その後すぐに世界市場を見据えたアルバム制作に取りかかるとともに、リリースに合わせてプロモーションキャンペーンが立ち上がった。

こうして Robert Stigwood は、Bee Gees こそ「1967年最も注目される新人」であると宣言し、Bee Gees と The Beatles を比較するプロモーションを展開。1stアルバム「Bee Gees' 1st」のリリースに先立ち、メンバーにオーストラリアクイーンズランド州生まれでロンドン育ちの Colin Petersen(Drums,1948年生)とオーストラリア時代から彼らのレコーディングに度々参加していたシドニー出身の Vince Melouney(Guitar,1945年生)が加入し、グループは5人編成となる。こうしてデビューシングル「New York Mining Disaster 1941」(邦題:「ニューヨーク炭鉱の悲劇」。厳密には UK における1stシングルは「Spicks and Specks」)をリリース。このシングルは、白ラベルに曲のタイトルだけが示された状態でラジオ局に配布されたため、一部の DJ たちがこれを The Beatles のニューシングルだと勘違いし、ヘヴィローテションし始めた結果、UK Singles Charts 第12位、U.S.Billboard Hot 100 第14位と、英米両国で Top20 入りする大ヒットとなる。この勢いを受けて2ndシングル「To Love Somebody」も、U.S.Billboard Hot 100 第17位とヒットを記録。「To Love Somebody」のオリジナル曲は、アメリカのシンガー Otis Redding の楽曲であったが、ソウルフルなバラッドを Barry が見事に歌い上げ、これ以降 The Flying Burrito Brothers、Rod Stewart、Bonnie Tyler、Janis Joplin、The Animals など数多くのミュージシャンがカヴァーするポップのスタンダードナンバーとなった。続いてアメリカでリリースされたシングル「Holiday」は、U.S.Billboard Hot 100 第16位を記録。これらの楽曲を収録した初の世界リリースとなる3rdアルバム「Bee Gees 1st」も、U.S.Billboard 200 第7位、UK Albums Chart 第8位と大ヒットを記録する。

▼「Bee Gees 1st」3rdアルバム(実質的な1stアルバム)
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1968年2月、4thアルバム「Horizontal」をリリースし、3rdアルバムに続き U.S.Billboard 200 第12位、UK Albums Chart 第16位とヒットを記録。シングルカット曲「Massachusetts」は、UK Singles Chart 第1位、U.S.Billboard Hot 100 第11位を、また「World」は、UK Singles Ckart 第9位を記録する。アルバム「Horizontal」は、「And the Sun Will Shine」や「Really and Sincerely」のバラッド曲が高い評価を受ける中、それまでのサウンドに比べてよりロックテイストなサウンドとなった。

▼「Horizontal」4thアルバム
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1968年、バラッドシングル「Words」(UK 第8位・US 第15位)と両A面シングル「Jumbo / The Singer Sang His Song」をリリース。「Jumbo」は、UK Singles Chart 第25位、U.S.Billboard Hot 100 第57位と Bee Gees として最も低いランキングのシングルとなった。1968年9月、5thアルバム「Idea」をリリースし、UK Albums Chart 第4位、U.S.Billboard 200 第17位を記録するとともに、シングルカット曲「I've Gotta Get a Message to You」は、UK Singles Chart 第1位、U.S.Billboard Hot 100 第8位を、また「I Started a Joke」は、U.S.Billboard Hot 100 第6位とヒットを記録する。だがこのアルバムのプロモーションのためツアーや TV 出演を行った後、リードギターの Vince Melouney は、よりブルーススタイルの音楽を志向しプロデュサー業に転向するためグループを正式脱退してしまう。

▼「Idea」5thアルバム
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1969年になると Robert Stigwood が Barry を前面に押し出そうとすることに Robin が不満を感じ、グループ内に亀裂が生じ始める。同年3月に2枚組の6thアルバム「Odessa」(最初は「An American Opera」、次に「Masterpeace」、最後に「Odessa」というタイトルになる。)をリリース。ほとんどのロック評論家たちが、プログレッシヴロックなタイトルトラック「Odessa」や、カントリー調の「Marley Purt Drive」、「Give Your Best」、バラッド曲「Melody Fair」、「First of May」などを収録するこのアルバムを1960年代を代表する Bee Gees の傑作と評価し、UK Albums Chart 第10位、U.S.Billboard 200 第20位を記録。だがこのアルバムシングルカットされたのは唯一「First of May」(邦題:「若葉のころ」)のみで、UK Singles Chart 第6位を記録したものの、U.S.Billboard Hot 100 では第37位とマイナーヒットに終わった。「First of May」をB面にし、A面を「Lamplight」にすべきだと主張していた Robin のグループ内での確執は決定的なものとなり、1969年中頃 Robin はグループを脱退し、ソロシンガーとしての道を選択する。

▼「Odessa」6thアルバム
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1969年6月、LP未収録シングル「Words」とオーストラリア時代のヒット曲「Spicks and Specks」を収録したグループ初となるコンピレーションアルバム「Best of Bee Gees」をリリース。UK Albums Chart 第7位、U.S.Billboard 200 第9位とヒットを記録。一方、同月に新曲「Tomorrow Tomorrow」もリリースし UK Singles Chart 第23位を記録するが、U.S.Billboard Hot 100 では第54位に終わる。

Robin がソロ活動を展開する一方で、Barry と Maurice と Colin Petersen は、7thアルバム「Cucumber Castle」のレコーディングに取りかかるが、ドラマーとして録音を進める Colin Petersen を Barry と Maurice が一方的に解雇してしまう。この結果、途中からフォークロック・バンド Pentangle のドラマー Terry Cox が参加してアルバムのレコーディングが行われる事態となる。ちなみに首になった Colin Petersen は、1970年に Jonathan Kelly とフォーク・ロックバンド Humpy Bong を結成している。

1970年4月、ようやくアルバム「Cucumber Castle」をリリースするが、世間的には2人組となってしまった Bee Gees はこれで終わったと思われた。そんな中、リードシングル「Don't Forget to Remember」(邦題:「想い出を胸に」)が、UK Singles Chart 第2位と大ヒットを記録。だが U.S.Billboard Hot 100 では第73位と惨敗に終わる。続くシングル「I.O.I.O.」と「If I Only Had My Mind on Something Else」も鳴かず飛ばずの結果に終わり、1969年12月1日、Barry と Maurice の兄弟喧嘩によりグループは空中分解に至ってしまう。

▼「Cucumber Castle」7thアルバム
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Maurice は、ソロアルバム「The Loner」をレコーディングするもののリリースには至らず。その間シングル「Railroad」をリリースし、ミュージカル「Sing a Rude Song」にも主演する。また Barry も、1970年2月にソロアルバム「The Kid's No Good」をレコーディングするが、こちらもリリースには至らず、シングルカットされた「I'll Kiss Your Memory / This Time」も芳しい結果を残せなかった。一方 Robin は、1969年リリースのシングル「Saved by the Bell」が UK Singles Chart 第2位と大ヒットを記録したが、1970年リリースの1stソロアルバム「Robin's Reign」の成績は芳しくなく、3兄弟それぞれが思うような結果を残せずにいた。

▼ The Bee Gees(5人メンバーの頃)
左からBarry、Colin Petersen、Robin、Maurice、Vince Melouney
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■ 第二期(1970年-1974年)

そんな1970年8月、Robin から休暇でスペインに滞在していた Barry の元に再結成しようという電話がかかり、これをきっかけに Barry と Maurice が過去の言動等について公式に Robin に謝罪し3人は和解。1970年8月21日、Barry、Robin、Maurice の3兄弟は、兄弟の固い結束の下に改めて Bee Gees として再出発することを宣言する。再結成に先立つ1970年6月にオーストラリアの R&B ポップグループ The Groove や Tin Tin の旧メンバーで Maurice の未発表ソロアルバムにも参加した Geoff Bridgford が新たにグループの公式ドラマーとして加入していたため、グループは Robin を加えて4人体制となった。

1970年10月、同年6月に Barry が加わる前に Robin と Maurice だけでレコーディングした12曲の内「Sincere Relation」と「Lay It on Me」の2曲を含む再スタート第一弾となる8thアルバム「2 Years On」をリリース。リードシングル「Lonely Days」は、TV の音楽番組への積極的な出演によるプロモーションも功を奏して U.S.Billboard Hot 100 第3位を記録する。だが、アルバム自体は U.S.Billboard 200 第32位と低迷し、セールスも低調に終わった。

▼「2 Years On」8thアルバム
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1971年9月、9thアルバム「Trafalgar」をリリース。シングル「How Can You Mend a Broken Heart」(邦題:「傷心の日々」)で、念願のグループ初となる U.S.Billboard Hot 100 第1位を獲得。また「Israel」は、ニュージーランドのチャートで第22位を記録した。更に「How Can You Mend a Broken Heart」のヒットにより、初めてグラミー賞の「Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocals」部門にノミネートされた。また、彼らがこれまでにアルバムに収録した楽曲から数曲が1971年のイギリス映画「Melody」(邦題:「小さな恋のメロディ」)のサウンドトラックに収録された。だが、アルバム自体は、 U.S.Billboard 200 第34位と前作に続いて低迷した。

▼「Trafalgar」9thアルバム
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1972年1月、ニューシングル「My World」(B面は Maurice 作曲の「On Time」)をリリースし、U.S.Billboard Hot 100 第16位とヒットを記録。更に1972年10月リリースの10thアルバム「To Whom It May Concern」からシングルカットされた「Run To Me」は、UK Singles Chart で第9位を記録し、再結成後初めて UK Singles Chart Top10 内に返り咲きを果たす。だが、10thアルバム「To Whom It May Concern」は、U.S.Billboard 200 第35位に止まり、続けてアルバムの売上げが低迷。グループのサウンドはマンネリ化に陥ることとなった。

こうした状況の1972年春、初の来日公演(日本でもアイドル的な人気であった1969年に来日が予定されていたが、メンバーの脱退等の諸問題により延期となっていたもの)寸前にドラマーの Geoff Bridgford が解雇され、グループはその最終形である Gibb 兄弟3人組の体制となる。

▼「To Whom It May Concern」10thアルバム
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1973年1月、Bee Gees は、マネージャー兼プロデューサーでもある Robert Stigwood が新たに設立した RSO Records に移籍し、11thアルバム「Life in a Tin Can」をリリース。マンネリ化した従来のストリングスサウンド(1967年以降ステージではバックに30人編成から成るストリングス・オーケストラを付けていた)からリズム主体のファンキーなサウンドへと脱皮を図ったものの、ファンからは売れるためにサウンドを変えたと猛反発され、結果的にアルバムは U.S.Billboard 200 第69位に終わる。またリードシングル「Saw a New Morning」の売上げも芳しくなく、U.S.Billboard Hot 100 第94位と惨敗に終わる。この結果を受けて当初予定されていた次作となるアルバム「A Kick in the Head Is Worth Eight in the Pants」は、リリース見合わせとなってしまう。続く1973年8月リリースの2ndコンピレーションアルバム「Best of Bee Gees, Volume 2」も Volume 1 のようにヒットすることはなく、U.S.Billboard 200 第98位に終わった。

▼「Life in a Tin Can」11thアルバム
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こうした中、アメリカのメジャーレーベル Atlantic Record のトップである Ahmet Ertegun のアドバイスを受けた Robert Stigwood は、ブルー・アイド・ソウルバンド The Young Rascals など数多くのアーティストのプロデュースで知られるソウルミュージックの巨匠プロデューサー Arif Mardin にグループのプロデュースを依頼。こうして1974年、その後のR&Bサウンドへの傾倒を予見させる12thアルバム「Mr. Natural」をリリースする。だが、このアルバムも U.S.Billboard 200 第178位と完敗に終わる。

▼「Mr. Natural」12thアルバム
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しかしアルバム「Mr. Natural」が注目を集めることに失敗した状況においても、Arif Mardin はグループにソウルミュージックスタイルを貫くよう勧め、グループは、スタジオサウンドを再現できるようなライヴステージバンドを招聘することに尽力する。1971年にグループに参加していたものの、アルバム「Mr. Natural」までほとんど出番がなかった Alan Kendall をバンドのリードギタリストに据えるとともに、「Mr. Natural」にもゲストミュージシャンとして参加した Dennis Bryon(Drums)とイギリスのロックバンド Strawbs のメンバーであった Blue Weaver(Keyboard)を加えて、1970年代後半まで続くこととなるバックバンド「Bee Gees バンド」を完成させる。また、それまで数多くの楽器の演奏を担当していた Maurice も、ライヴではベースに専念するようになった。

▼ The Bee Gees
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■ 第三期(1975年-1979年)

1975年、Bee Gees は、ロックミュージシャン Eric Clapton の提案により、次のアルバムのレコーディング拠点をフロリダ州マイアミに移し、そこで最初に何曲かバラッドを収録したが、最終的にプロデューサー Arif Mardin とマネージャー Robert Stigwood の強い勧めを受け入れ、よりダンス指向のディスコソングをレコーディングすることになる。その結果5月に先行リリースされたシングル「Jive Talkin」は、グループ通算2曲目となる U.S.Billboard Hot 100 第1位を獲得するとともに、9月にリリースされた「Nights on Broadway」(邦題:「ブロードウェイの夜」)は、第7位を記録し、ディスコブームに沸く全米で大ヒット。低迷していたグループは、この結果に復活への光明を見出す。こうして1975年6月、前作に続いて Arif Mardin プロデュースによる13thアルバムにして芸能生活20周年記念アルバムでもある「Main Course」をリリース。後にグループのトレードマークとなる Barry のファルセットによる楽曲が初めて収録されたアルバムは、旧来からのファンにも受け入れられ、U.S.Billboard 200 第14位を記録。「Jive Talkin」と「Nights on Broadway」のシングル2曲を U.S.Billboard Hot 100 Top10 に送り込む1968年のアルバム「Idea」以来のヒットアルバムとなった。こうしてプロデューサー Arif Mardin の読み通り、アルバム「Main Course」はチャート入りしたグループ初の R&B アルバムとなると同時に、Bee Gees 第三期黄金時代の幕開けともなった。

▼「Main Course」13thアルバム
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1976年9月、新たに確立された Barry のファルセットヴォーカルと Blue Weaver のディスコシンセサイザーに彩られた14thアルバム「Children of the World」をリリース。なお、このアルバムのプロデューサーは Arif Mardin ではなく、前作「Main Course」で Arif Mardin と仕事を共にした Albhy Galuten と Karl Richardson の共同プロデュースにより制作されており、このプロデュースチームは、1981年リリースの16thアルバム「Living Eyes」まで継続する。

Stephen Stills のパーカッションも印象的なアルバムからの第一弾シングル「You Should Be Dancing」は、グループにとっても目新しい旧来からのファンにとっては馴染みのない R&B/ディスコ調のサウンドであったが、U.S.Billboard Hot 100 第1位と大ヒットし、アメリカにおいてグループを今まで到達し得なかったスターダムの高みにまで登らしめる楽曲となった。またポップバラッド曲「Love So Right」は、U.S.Billboard Hot 100 第3位を、「Boogie Child」は、第12位を記録するヒットとなった。こうしてアルバム「Children of the World」自身も、U.S.Billboard 200 第8位を記録し、前作に続いて大ヒットを収める。

1976年11月、1967年から1972年までのヒット曲を収録したベストアルバム「Bee Gees Gold」をリリースし、U.S.Billboard 200 第50位を記録。

▼「Children of the World」14thアルバム
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1977年5月、ライヴアルバム「Here at Last... Bee Gees... Live」でも U.S.Billboard 200 第8位と成功を収めた Bee Gees は、この勢いを受けてマネージャー Robert Stigwood の提案により1977年のアメリカ映画「Saturday Night Fever」のサウンドトラック制作に参加することとなる。これがグループの音楽活動の大きなターニングポイントとなった。この映画とサウンドトラックの文化的なインパクトは世界中を揺るがすほど大きなもので、ディスコシーンのメインストリームとして長期にわたり影響を与えることとなった。

主演の John Travolta が「Bee Gees は最初の内、映画にすら関わっていなかったよ。だから僕は Stevie Wonder や Boz Scaggs の曲で踊っていたんだ。 」と語るように、当初 Bee Gees はこの映画へ関わることにはなっていなかったが、プロデューサーの Robert Stigwood が急遽映画への楽曲提供をグループに依頼してきたため、グループは事実上、フランスのレコーディングスタジオで週末の数日だけで楽曲は完成されることを余儀なくされた。そんな当初粗々の台本しか渡されず、映画のコンセプトさえ全く知らなかった中で制作された楽曲は、Robert Stigwood の期待を裏切らない出来栄えとなる。

ちなみにサウンドトラックの監督である Bill Oakes は、「当時この映画は、ディスコそのものが流行るきっかけとなったと評価されたけど、それは間違いさ。ディスコはそれなりに続いていたし、実際には死にかけていたディスコというジャンルに新しい命を吹き込んだといった方が正しいよ。」と映画「Saturday Night Fever」がディスコブームを引き起こしたのではなく、終息しつつあったディスコの息を吹き返らせたと語っている。

映画に提供した3曲「How Deep Is Your Love」(U.S.Billboard Hot 100 第1位・UK Singles Chart 第3位)、「Stayin' Alive」(US 第1位・UK 第4位)、「Night Fever」(US 第1位・UK 第1位)はいずれも大ヒットし、世界中の多くの国でチャート上位を独占。ディスコ全盛時代の幕開けを告げる。また、Yvonne Elliman に提供した「If I Can't Have You」が、U.S.Billboard Hot 100 第1位を獲得。この楽曲は Bee Gees もセルフカヴァーして「Stayin' Alive」の B面としてシングルリリースしている。更に映画で好評を博した「More Than a Woman」は、アルバムに Bee Gees ヴァージョンと Tavares ヴァージョンの2曲が収録されており、ラジオで盛んにオンエアされ、シングルカットされた Tavares ヴァージョンは、U.S.Billboard Hot 100 第32位、UK Singles Chart 第7位を記録した。

Gibb サウンドの勢いは止まるところを知らず、1977年のクリスマスシーズンが始まってからの8か月間、32週中25週連続してGibb 兄弟が作曲した6曲(3曲がグループ、2曲が Andy Gibb のソロ、1曲が Yvonne Elliman のリリース曲)が入れ代わり立ち代わり U.S.Billboard Hot 100 第1位を維持する偉業を達成する。

映画の成功も手伝って、サウンドトラックはその時点で音楽史上最も売れたアルバムとなるなどいくつもの音楽業界の記録を塗り替えた。その売上げは4億枚以上となり、最も売れたサウンドトラックの第1位を獲得。ちなみに2016年現在では第2位となっており、4億4千万枚を売り上げた1992年のアメリカ映画「The Bodyguard」のサウンドトラックに第1位の座を明け渡している。また音楽アルバム全体でも2010年当時では世界中で最も売れたアルバム第4位であったことが明らかになっている。

1978年3月、「Night Fever」と「Stayin' Alive」の2曲で The Beatles 以来初となる U.S.Billboard Hot 100 第1位と第2位の2トップを獲得する。同年3月25日週の U.S.Billboard Hot 100 では、Gibbs 兄弟が作曲した「Night Fever」、「Stayin' Alive」、「If I Can't Have You」、「Emotion」、「Love is Thicker Than Water」の5曲が同時に Top10 入りを果たす。こうしたチャートの独占状態は、The Beatles の楽曲5曲全てが Top5 を埋め尽くした1964年4月以来の快挙であった。

こうして Barry は、1964年に John Lennon と Paul McCartney が作った記録を破って、「Stayin' Alive」、「Love Is Thicker Than Water」、「Night Fever」、「If I Can't Have You」の4曲連続で U.S.Billboard Hot 100 第1位を獲得した唯一のソングライターとなった。

更に Bee Gees は、サウンドトラック「Saturday Night Fever」で、2つの「Album of the Year」、「Producer of the Year」(Albhy Galuten と Karl Richardson と共同で受賞)、2つの「Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocals」(1978年の「How Deep Is Your Love」と1979年の「Stayin' Alive」)の計5つのグラミー賞を受賞。

▼「Saturday Night Fever」
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この時期、Barry と Robin は古くからの友人でオーストラリアのヴォーカリスト Samantha Sang に「Emotion」を提供。Bee Gees もバックヴォーカルで参加し、U.S.Billboard Hot 100 第3位を記録。また Barry は、ブロードウェイミュージカル「Grease」の映画化に伴い Frankie Valli にタイトル曲「Grease」を提供し、U.S.Billboard Hot 100 第1位を記録するヒットとなるなど、他のアーティストにも楽曲を提供してその実力の程を示した。

一方で Gibb 兄弟末っ子の Andy も兄達同様音楽の道に進みアイドルシンガーとして大きな成功を収めており、Barry プロデュースによる3シングル(1977年「I Just Want to Be Your Everything」、「(Love Is) Thicker Than Water」、1978年「Shadow Dancing」)は全て U.S.Billboard Hot 100 第1位を獲得する大ヒットを記録した。

1979年2月、「Saturday Night Fever」に続く15thアルバム「Spirits Having Flown」をリリースし、「Too Much Heaven」(U.S.Billboard Hot 100 第1位、UK Singles Chart 第3位)、「Tragedy」(US 第1位、UK 第1位)、「Love You Inside Out」(US 第1位)と3曲の No.1 ヒットシングルを生み出す。これで1年半の間に6曲連続で U.S.Billboard Hot 100 第1位を獲得。この偉業は The Beatles に並ぶ記録で、これを上回ったのは Whitney Houston のみであった。またアルバムも U.S.Billboard 200 第1位、UK Album Chart 第1位を獲得し、Bee Gees のアルバムの中で最も人気を得たアルバムとなった。

だが、ダンスナンバーを中心とするコンテンポラリー路線を走ってきたグループのこうした圧倒的な成功は、ディスコブームのバブルと共に沸き起こり、その崩壊とともに沈静化することになる。1979年末以降、ディスコ人気は急速に低下し、その反動でアメリカにおける Bee Gees の人気も急落。1975年から1979年までの快進撃が嘘のように、その後 U.S.Billboard Hot 100 Top 10 入りしたシングルは、1989年リリースの「One」のたった1曲のみとなってしまう。ただ、当の Barry Gibb 自身は、「Saturday Night Fever」のサウンドトラックの成功を客観的に見ており、後にその異常な状況を、ある意味「天恵」でもあり「呪い」でもあったと語っている。

▼「Spirits Having Flown」15thアルバム
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■ 第四期(1980年-1986年)

Robin は、Gibb 兄弟作曲の楽曲を含む1980年5月リリースのアメリカのソウルシンガー Jimmy Ruffin のアルバム「Sunrise」を共同プロデュース。また1980年3月、Barry は、Barbra Streisand のアルバム「Guilty」の全9曲に共同プロデュース、作曲、共作で参加し、その内4曲を Robin が作曲、タイトルトラックを Robin と Maurice が作曲した。Barry は、アルバムジャケットでも Barbra Streisand と並んで写るとともに、2曲でデュエットするなどこのアルバム制作に深く関わった。その結果、アルバム「Guilty」と Barry と Robin が作曲したシングル「Woman in Love」は、いずれも米英両方でチャート第1位を獲得し、現在まで Barbra Streisand の最も成功した作品となっている。また、Barbra Streisand と Barry がデュエットした「Guilty」と「What Kind of Fool」も、U.S.Billboard Hot 100 Top10 入りするヒット曲となった。

1980年10月、次作となるアルバムのレコーディングのためグループを再結集するが、Bee Gees バンドの Alan Kendall(Lead Guitra,1987年に再加入)と Dennis Bryon(Drums)がグループを去り、他のスタジオミュージシャンを募集しなければならなくなる。

1981年10月、ようやく16thアルバム「Living Eye」をリリースに漕ぎ着ける。このアルバムが RSO Records からリリースした最後のアルバムにして公式にリリースされた最初の CD 作品となった。しかしながら、ディスコミュージック衰退による反動は依然として厳しく、アルバムは UK Albums Chart 第73位、U.S.Billboard 200 第41位に、またシングルカット曲「He's a Liar」は、U.S.Billboard Hot 100 第30位、「Living Eyes」は、第45位ととマイナーヒットに終わり、1975年の「Jive Talkin」以来続いていたリリースシングル U.S.Billboard Hot 100 Top40 入りという記録も途切れてしまった。

こうして以降は、各自のソロ活動と並行して他アーティストへの楽曲提供が活動の中心となり、そうした活動の中で数多くの全米ヒットを生み出すことになる。

▼「Living Eye」16thアルバム
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■ 第五期(1987年-1999年)

1987年、グループは Warner Bros. Records に移籍。同年9月、移籍第一弾アルバムにして実に6年振りとなる17thアルバム「E.S.P.」をリリースし、3千万枚以上を売り上げる。シングルカットされた「You Win Again」は、UK Singles Chart 第1位を記録したのを始め多くの国で第1位を記録し、これにより Bee Gees は、1960年代・70年代・80年代の各年代で UK Singles Chart 第1位を獲得した初のグループとなった。ただこのシングルは、アメリカでは U.S.Billboard Hot 100 第75位と期待外れに終わり、Bee Gees は、ヨーロッパでヒットしているにもかかわらずアメリカのラジオ局でオンエアされないことへの欲求不満を口にしたが、こうしたグループの怠慢な態度が、結果的にアメリカにおける売れ行きの悪さに繋がることとなる。同様にアルバム自体も UK Album Chart では第25位とそれなりにヒットしたが、U.S.Billboard 200 第96位と振るわなかった。シングル「You Win Again」は、1987年イギリスのアカデミー賞といわれるアイヴァー・ノヴェロ賞(Ivor Novello award)の Best Song Musically and Lyrically 賞を受賞。また1988年2月には、グループはイギリスのグラミー賞といわれる ブリット賞(Brit Awards)の Best British Group にノミネートされた。

▼「E.S.P.」17thアルバム
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1988年3月10日、Gibb 兄弟の末っ子 Andy が、ウイルス感染による心筋炎により30歳の若さで急逝。心筋炎の原因は、過去のドラッグやアルコールへの依存により Andy の心臓がこの病気にかかりやすくなっていたためと言われているが、Andy の死は、Gibb 兄弟が Andy を加えて Bee Gees を4ピースグループにしようと決めていた矢先のことであった。

1989年4月、Andy に捧げる楽曲「Wish You Were Here」を収録した18thアルバム「One」をリリース。シングルカットされたタイトルトラック「One」は、U.S.Billboard Hot 100 第7位と10年振りに Top 10 入りを果たし、U.S.Billboard Adult Contemporary Chart でも第1位を記録するヒットとなり、グループは10年ぶりのワールドツアーに着手した。そうしたヒットとは裏腹に音楽専門誌である Rolling Stone 誌では、"Unwelcome Back Band"と酷評され、アルバム自体は U.S.Billboard 200 第68位と前作同様振るわなかった。

▼「One」18thアルバム
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1991年3月、18thアルバム「High Civilization」をリリースし、ヨーロッパツアーも実施。このアルバムが Warner Bros. Records からの最後のリリースとなる。アルバムは英米両国でチャートを賑わせることはなかったが、シングルカットされた「Secret Love」は、UK Singles Chart 第5位を記録した。ツアー終了後 Barry は、手術を必要とするほど深刻な背中の疾病と戦うことを余儀なくされる。加えて関節炎にも苦しめられ、一時は長時間ギターを弾くことが危ぶまれるほど深刻な状況に陥った。また1990年代初期には、Maurice も専門機関の助けを借りて長年患っていたアルコール依存症の治療に取り掛かることになる。

1993年、グループは古巣の Polydor Records に復帰し、同年9月に19thアルバム「Size Isn't Everything」をリリース。シングルカットされた「For Whom the Bell Tolls」は、UK Singles Chart 第5位を記録するヒットとなったが、アメリカでは不発に終わる。続く「Paying the Price of Love」は何とか U.S.Billboard Hot 100 第74位に入ったものの、アルバム自体は U.S.Billboard 200 第153位と惨敗に終わった。

▼「Size Isn't Everything」19thアルバム
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1997年3月、20thアルバム「Still Waters」をリリース。1979年以来最高となる UK Albums Chart 第2位、U.S.Billboard 200 第11位を記録し、4千万枚以上を売り上げるヒットとなる。アルバムからの第一弾シングル「Alone」も、UK Singles Chart 第5位、U.S.Billboard Hot 100 第28位とヒット。このアルバムは、RSO Records 在籍時代以降にアメリカでリリースしたアルバムの中で最も成功したアルバムとなった。

▼「Still Waters」20thアルバム
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■ 第六期(2000年-2008年)

2001年4月、グループとして最後のスタジオアルバムとなる21thアルバム「This Is Where I Came In」をリリース。UK Albums Chart 第6位、U.S.Billboard 200 第16位とヒットを記録。タイトルトラック「This Is Where I Came In」も UK Singles Chart 第18位と健闘した。アルバムでは、例えば Maurice が作曲してリードヴォーカルを務めた「Man in the Middle」、「Walking on Air」、Robin が作曲した「Deja Vu」、「She Keeps on Coming」、「Embrace」、Barry が作曲した「Loose Talk Costs Lives」、「Technicolour Dreams」、「Voice in the Wilderness」といったように、Gibb 兄弟が共同で作曲して歌うことはもちろん、それぞれが個別に作曲しヴォーカルを務めることにも挑戦した意欲作であった。Bee Gees は、このアルバムプロモーションのため多くのTV番組に出演したが、2002年の「Love and Hope Ball」でのコンサートが3人揃っての最後のコンサートとなる。

▼「This Is Where I Came In」21thアルバム
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2003年1月12日、晩年グループの音楽ディレクターを担っていた Maurice が、腸捻転の回復緊急手術を待つ間に心臓発作により53歳の若さで急逝。Maurice の死後、Robin と Barry は、Maurice の記憶でもある Bee Gees の名前を使い続けることを表明していたが、その後、3兄弟の象徴として残すため、 Bee Gees 再結成の意向はないと表明。

Maurice が亡くなったのと同じ週、Robin はソロアルバム「Magnet」をリリース。2003年2月23日、Bee Gees は、Robin と Barry と Maurice の息子 Adam が出席してグラミー賞の特別賞である「Grammy Legend Award」を21世紀としては初めて受賞する。

その後、Robin と Barry は、個別又は共同で音楽活動を継続し、他のアーティストへの楽曲提供や共同でイベント等に参加する。

▼ The Bee Gees
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■ その後(2009年-現在)

2009年9月、Robin は Bee Gees としての活動を再開することを表明。2010年にかけて BBC や ABC-TV など数々のTV番組等に出演する。

2011年11月、61歳になった Robin は肝癌と診断されたことを公表。その翌年の2012年5月20日、Robin 死去。これにより残るメンバーは Barry 一人となり、Gibb 兄弟によるグループ活動に終わりを告げた。

Barry は現在もソロやゲストシンガーとして音楽活動を展開している。

(出典:「Bee Gees」(1 December 2016 02:40 UTC) 『Wikipedia英語版』他)

▼ The Bee Gees
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*この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表された Wikipedia の項目「Bee Gees」を素材として二次利用しています。


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